悲しい恋物語|ぬくもり3-17

 鬼ヶ島の正式な名称は、皆が不似合に感じる三日月島であった。奇怪な形をした黒い岩山が、上空からはそう見えるのが情緒を感じる名の由来なのだ。白竜浜に背を向けた三日月形のうち側に、サメよけネットの張られた砂浜のプライベートビーチが広がっている。浜辺の北側に大きなヨットハウスが建てられ、そこから長い桟橋が伸びていた。海野正孝が個人で所有するヨットや水上バイク、白竜温泉社所有の大型クルーザーなどが、兩サイドで自慢げに繋留されているのだ。町までの往復には、最速のモーターボートまでもが用意されていた。岩山の中央に立つ灯台に、島の周囲を警戒する数台の監視カメラが据えられている。不用意に近付く船舶や漁船があれば、けたたましいサイレンを鳴らして警告した。速やかに島から離れない時は、強面の男たちが水上バイクで飛び出してきて追い払うのであった。
「兄貴、お久しぶりです。」
月夜の海に浮かぶ桟橋に上がる若頭(ワカガシラ)補佐の黒岩武雄(クロイワ タケオ)を迎えに来たのは、舎弟の須藤真一(スドウ シンイチ)と、凄みのある男たちだった。修羅場をくぐった組織のツワモノなのだ。彼らの全員が、眉一つも動かさずに人の命を奪うことができる。今も投獄されているあの新海五郎も、彼らの下部組織を構成する組長の一人であった。
「万事、抜かりはないだろうな。」
「へい、全て順調です。」「こちらへ。」
屋上が脱出用のヘリポートになっているのだ。ヨットハウスとは名ばかりだった。
「さっそく見られますか。」
「もちろんだ。」
桟橋に連なる二階建ての一階部分は、ゴロマキが得意な連中の、島を護るための詰所となっている。いざともなれば、戦争ができるほどの武器や弾薬を隠し持ち、その取扱いにも精通していて、日々は武術の鍛錬と射撃訓練に時を費やしていた。
「兄貴のIDカードとパスワードです。」
建物の背後は、奇怪な岩山にぴたりと接している。一階奥の突き当りに、その頑強な隠し扉が設けられていた。無論、危険な輩の詰所を通らなければ、この扉に行き着くことはできない。海野正孝が白竜警察を浜から遠ざけてきたことも相まって、ここから先は組織の者以外の目に触れることは絶対になかった。つまりは、法の力の及ばぬ無法地帯なのだ。
「いかがでしたか?」
大幹部の黒岩が、二階のリビングに戻ってきていた。須藤は顔色を窺うように問い掛けた。
「いいだろう。だが…。」
細かな指示が飛んだ。組織の資金源を担う大事な拠点なのである。暫くはこの島に留まって、この先に控えている巨額の取引を見届けなければならない。黒岩武雄は、そのために乗り込んできたのだ。組織の者たちも、彼の一挙手一投足に緊張していた。
「今夜のスケは揃えてあります。」「後から部屋へ。」
「いや、疲れた。休ませてもらおう。」
白竜温泉社が関わっているのではなかった。海野正孝自身も、この島には迂闊に近づけないのだ。完全に組織の支配下に置かれていた。組織の一員でもない海野が、鬼ヶ島を無償で提供しているのには深いわけがある。決して他人に知られてはならない秘密の過去があった。その過去の出来事に、当時の組織が関与していた。白竜浜では泣く子も黙ると言う海野正孝も、彼らだけには生涯逆らえなかったのだ。ずっと、首根っこを押さえられていた。

 今にも泣き出しそうな空の下、買い物のエコバッグを積んだ母の車が、駐車場へ滑り込んでくるのが見えた。今夜は大好物の焼き肉の予定だった。彼は、在宅で請け負っている仕事を早めに片付けて、夕食の準備を手伝うつもりでいたのだ。
『白竜温泉への旅行が決まりました。』
未だ返信をしていない。百葉美玲からのメールが届いたのは昨夜であった。
『お会いすることはできますか?』
どうすれば良いのか。沢田明信は、本当に思案に暮れていた。
『沖むらという旅館に泊まります。』
予期せぬ事態に、今さら真実を打ち明けるべきか、迷いに迷っているのだ。
『直接お会いしてお話がしてみたいです。』
ひと目相手に逢ってみたい気持ちは同じであった。彼もまた、美麗の人柄に強く惹かれていたのである。見えないことを物ともせずに、全盲の子供たちのために童話を書こうとしていた。最初は、半信半疑であった。長々と物語を組み上げる小説とは違って、殆どがひらがなの短い文章にまとめる童話を描くには、かなり豊かな感性と表現力を持っていなくてはならない。そう、簡潔な文章ほど、高度なテクニックが要求されるのだ。だが、彼女はその両方を備えていた。やる気を裏打ちする優れた才能にも恵まれていた。
『沢田さんのご都合を教えて下さい。』
部屋の戸が開いた。母が顔を見せたのだ。
―コンヤノゴハン、6ジデイイカナ?―
二人の会話は手話だった。
―ハヤクタベタイ、オナカスイタ!―
美玲とは五歳年上の明信は、生まれながらの聾唖者(ロウアシャ)だった。彼自身も独身の聴覚障害者なのだ。今日までその事実を、彼女だけには伝えずにきてしまっていた。隠そうと考えてきたのではない。伝えるべきタイミングを逸しただけなのだ。否、本当はそうではないだろう。伝えるべきタイミングなどいくらもあったはずなのだ。彼自身が、それを良く知っていた。同じ障害者でも、これほど遠い存在の組み合わせはないからだ。明信は、空の青さも、海の広さも、山々の連なりも見ることができた。しかし、彼は小鳥たちの可愛い囀りを聴くことも、心癒される潮騒を聴くことも、山々に木霊する自分の声に耳を傾けることもできなかった。
『お返事待っています。美玲。』
もちろん、やさしい響きであろう彼女の声を聴くことも永遠に不可能なのだ。響きという言葉すらも、概念として知っているに過ぎない。美玲自身も、彼と手話で話すことは叶わなかった。インターネットがなければ、おそらく巡り逢わなかったであろう二人なのだ。その出逢いは、神のイタズラなのか。第三者を介さなければ、挨拶さえも交わせなかった。降り出した雨がガラス窓の外を音も無く濡らしている。まるで、悲しい恋物語の予感に、低く垂れこめた暗い空が涙しているようだった。



「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/446565791
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック