誤解|ぬくもり3-18

 こうして腕組みしながら二人で歩くのは、新婚旅行の代わりに、この浜を訪れて以来であった。千穂が、恥ずかしがる彼の腕を取ったのだ。あの時は、リゾートホテルの再開発に絡んで、万作は、連日連夜の打ち合わせに追われていた。目に眩しい、真っ白な砂浜が続いている。旅館の仲居が言っていた通り、素足で歩いたらさぞや気持ちがいいだろう。彼女は当時を思い返しながら、あの時の寂しかった記憶を塗り替えるように、二十年後の二人を楽しんでいた。白竜浜の伝説の地で、再び万作との愛が結び直される気がしていたのだ。
「今日は暖かね。」「南の島にいるみたい。」
「うん。昨日は雨だったらしい。お前は運がいいな。」
「あら、あなたの運だわ。」
「俺の運か。」「ふふん!」
千穂は、日傘の陰から、鬼ヶ島に目をやる二十年後の夫の横顔を見た。
「真帆さんとシンちゃんも、一緒に連れて来てあげたかったなー。」
万作は、やはりそれには答えなかった。
「でも、本当に鬼や竜がいるなら、見てみたいわ。」「そう思わない?」
「ははっ、ほんとにいるなら、俺は真っ先に逃げ出すさ。」
長年連れ添った夫婦は、会話以外の方法でも、知らず知らずに互いの意思の疎通が行われている。ちょっとした仕草や表情の変化は無論のこと、テレパシーとでも呼ぶべきか、二人が離れた場所にいてさえ、驚くほど以心伝心することがあるのだ。それは、互いを思いやる愛の深さに比例する。愛の深さは、人間としての深さに比例するのであった。
「女将の美崎凪乃と申します。」
「まあ、何て綺麗な女将さんでしょう。」
「また沖むらにお越し頂き、心から御礼申し上げます。」
美しさもさることながら、楚々とした身のこなしが知性の高さをうかがわせている。それと同時に、修行を始めたばかりと思えない、堂々たる若女将の風格でもあった。次の間の後ろに控える仲居頭の初美も、どこか誇らしげで楽しそうなのだ。凪乃の噂はたちまち千里を走り、閑散期にも関わらず、予約や問い合わせの電話がひっきりなしに鳴っている。否、一番の変化は、真面目な従業員たち自身の士気の高さであった。そこに彼女がいるだけで、古びた旅館のそこかしこが華やいでいく。若女将が微笑むだけで、仕事の疲れが吹き飛んでしまうのであった。凪乃に褒めてもらいたくて、凪乃に喜んでもらいたくて、その笑顔を、今日も明日も明後日も、ずっとずっと見ていたくて、皆が皆、全力投球で自分の仕事に励んでいた。
「うふふっ、あなた、見とれ過ぎだわ。」
当然、万作の目も釘付けであった。少し前の自分なら、社を挙げてこの旅館を応援し、若女将を口説き落とそうと画策していたかもしれない。この美は、それほどまでに人の心を狂わせるだろう。時には、善良な者まで邪なケダモノに変えてしまうに違いない。この時はまだ、彼女の運命を自分が大きく左右するなど、夢にも考えてはいなかった。
「タクシーなら、30分くらいなのね?」
「はい。でも一本道なので、夕方は意外に渋滞します。」
「そうなんですか。」「あなた、今のうち、お見舞いに行きましょうか?」
隣の大きな町の老人ホームに、昨年の春、妻の孝子に先立たれた伯父の杉山雄一が入所している、すでに寝たきりで、お迎えが来るのを待っている状態であるらしいのだ。孝子の甥の万作と、千穂が彼に会うのは、まさに二十年ぶりであった。

 南条正美も、本当は気が気ではなかった。友則から、かるがもメンバーの温泉旅行に誘われたとの話を聴かされたのである。聴かされたと言うのは正しくなかった。彼の言葉の端端から、何かを隠している、そう感じて誘導尋問にかけたのだ。女性の勘は鋭い。恋をしているならなおさらだった。だが、聴いた以上は妄想が駆け巡る。小紅螺と言う女性との、あんな場面やこんな場面が頭に浮かんで、猛烈な嫉妬に振り回されていったのだ。隠していたことも、彼女の不安を増大させた。友則の中に、後ろめたい想いがあるからにほかならない。もしかしたら、すでにそういう仲なのか。それとも、そういう仲になりたいと望んでいるのか。いずれにしても、相手を異性として捉えているのは確かなのである。だから、自分には話さなかった。話せなかったのだ。やはり、若い娘に惹かれるのは仕方がないのだろう。自分が、とことんじらせているのも、彼を中途半端な気持ちにさせているのかもしれなかった。それでも、まだ早い。そんな深い関係になるには時期尚早であった。
「正美さん…。」
今夜も拒まれた。唇から先へは絶対に進めない。衣服の上から軽く触れることさえ、全く許してはもらえなかったのだ。休みの前日はいつも葛藤の繰り返しだった。どんなにデートを重ねても、人目に付かない場所を探して車を停め、わずかな時間だけ唇を重ねさせてもらえるだけだった。後は、悶々とした気持ちで彼女を自宅に送り、毎度、次のデートに期待しながらひたすら独りで我慢するしかなかったのである。
「僕じゃ…、ダメですか。」
友則は、悲しげな表情を見せた。
「ダメって?」
「まだ僕のこと、彼氏って思ってないですよね?」「僕は、こんなに大好きなのに。」
募る想いを遂げたいだけではなかった。正美の心が分からないのだ。どうして拒まれてしまうのか。いつになったら、本気になってくれるのか。もしかしたら、自分は退屈しのぎの足代わりなのかもしれない。そんなやるせない気持ちに囚われていた。
「小野寺君、誤解してるわ。」
正美は、愛おしそうに彼の髪に触れていった。
「あなたのこと、大切に想ってる。」
言葉だけなら何とでも言える。その言葉が、真実である証が欲しいのだ。
「誤解、ですか。」「そうは…思えないです。」
「え?小野寺君…。」
真っすぐに自分を見る小紅螺の顔が浮かんでいた。彼女となら、こんな風に人目を忍んで逢う必要もない。ごく普通の、当たり前の恋愛ができるだろう。正美にとって、しょせん自分は部下なのだ。どこまでいっても、彼女と対等になれるはずがない。
「もういいです。送ります。」
「待って!」
初めて、自分から飛び込んでいた。本当は、ずっとこうしたかったのだ。このまま彼を帰したら、もう二人で逢ってはもらえない。そう感じた瞬間、友則の胸に飛び込んでいた。
「今夜は、このまま送ります。」
彼は、声を押し殺すように言った。
「でも、次の時は…。」
両手で強く抱き締められた腕の中で、正美は彼に分かるように、はっきりとうなずいてみせたのだ。大人としての冷静な判断も、失ってしまうという怖れには勝てなかった。小紅螺の存在が、彼女を気弱にさせてしまったのである。すでに恋の主客が逆転していた。


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