むかしむかし|ぬくもり3-19

 ―むかしむかし、あるところに、ちいさなちいさなこびとさんのくにがありました。みんな、ひとのてのひらにのれるおおきさなのです。とってもゆたかなくにで、たべるものにはぜんぜんこまりませんでした。あまくておいしいフルーツや、えいようたっぷりのおやさいがとれるからです。くにじゅうのひとたちがなかよしで、いつもたすけあいながらたのしくくらしていました。でも、このくにには、みんなでまもらなければならない、だいじなやくそくがあったのです。それは、どんなにねむくても、よるがくるまで、ぜったいにねむってはいけないというやくそくでした。このやくそくをやぶると、こわいこわいあおいばあばがやってくるのです。あおいばあばは、ながいつののはえたすごくあばれんぼうで…。―
美玲は、楽しそうに笑みを浮かべて、それからあおいばあばを、おにのばあばと書き直していった。彼女の頭には、お母さんが添い寝している子供たちの姿や、お婆ちゃんの膝に抱かれた子供たちの姿が浮かんでいる。できることなら、その子たちを笑顔にして上げたい。お母さんやお婆ちゃんも一緒に。温かなやさしさで満たして上げたかった。そう願いながら、あれやこれやと丁寧に思案をめぐらせているのだ。彼女が第一に伝えたいのは、人の心のぬくもりだった。純真で疑うことを知らない子供たちに、人間はこんなに思いやりがあって素晴らしい、生きていることはこんなに素敵なことなのだと伝えて上げたかった。見えないからこそ、全盲の子供たちにしか思い描けない世界があるはずだ。見えないからこそ、外見に囚われない本質に逸早くたどり着けるはずだった。より深く、より幅広く知ることで、もっと知りたい、もっとたくさんのことを聴いてみたい、そんな旺盛な好奇心を育てることができたら、その子は、理不尽な宿命を乗り越えて、自らの未来を力強く切り開いてゆく大人になってくれるかもしれなかった。美玲は、自分が成しえなかった多くの夢を託したいとも考えていたのだ。水を得た魚の如く、彼女は寸暇を惜しんでパソコンに向かっていた。私は、こんなに書きたかったのだ。こんなに伝えたいことがあったのだと、自分自身に驚きながら、夢中で童話の世界にのめり込んでいたのである。
「オホホッ、やっとですの?」「とっても良かったですこと。」
美玲はこの瞬間を、一抹の不安を覚えながら待ちに待っていた。時には五分おきに、まだかまだかとメールのソフィトを繰り返し開いていたのだ。待つ者にとっての時間は、忘れられたかのように思えてとても長く感じられてしまう。それが、恋しい人からの返信であれば、殊更にその時間が果てしもないものに感じられるのであった。本業の仕事に追われているのか。何かのイベントや行事に参加していて自分のメールを見ていないのか。もしかしたら体調を崩して病のとこに臥せっているのかもしれない。否、気付かぬうちに失礼なことを書いてしまい、もう二度と相手にしてもらえないのかもしれないとさえ心配していた。なにせ、彼はボランティアなのだ。だが、すべての疑問は、着信した沢田明信からのメールを読めば解決するだろう。彼女は嬉しそうに笑みを浮かべ、胸躍らせながらパソコンの音声に耳を澄ませていった。
「あら、何のことですの?」「オホホッ、何がおっしゃりたいのか…。」
まず、その笑みが消えた。それから、言葉を発しなくなっていった。しだいに、心も付いていかなくなって、思わず途中で音声を止めてしまったのである。強く唇を噛んでいた。もはや何一つも考えられない。頬を伝う涙が顎の先で出合って、膝の上へと落ちていったのだ。二人が、結ばれない定めであると、百葉美玲は、この時初めて知らされたのであった。それが、互いに相容れない障害を持って生まれた者同士の、とても悲しい恋の物語であったと…。降り出した雨の音が、彼女には、二人を隔てる見えない壁のように感じられていた。

 女性との夜の会話を楽しめる店が、ずらりと軒を連ねている竜王通りは、飲み屋街から白竜浜に通ずる短い小路であった。どの店も、手軽な金額で女の子たちとの洒落たひと時が味わえる。安心の明朗会計な上に、女の子の数が足らなくて、ずっとカウンターでほったらかしにされる心配がまずなかった。都会と違って、シングルマザーたちの稼げる場所が少ないためだ。粒ぞろいの手弱女(タオヤメ)たちが観光客や地元の働き手を待ってくれていた。凪乃が、火急を知らせるフロントからの内線電話を受けたのは、ようやく一日の仕事を終えて、離れで夕食を食べ始めた深夜であった。彼女は取る物も取りあえず、普段着で旅館の裏口を飛び出していた。夏場や連休のかき入れどきなら、館内の仮眠所にそれなりの従業員が泊り込んでいる。だが、閑散期の今は、週末でも、通いの者たちだけで充分事が足りていた。平日の夜間ともなれば、フロントの夜勤者が独りで電話番しているだけなのだ。この時間の沖むらに、今すぐ彼女に同行できる人手はなかった。宿泊客の男性グループが、フロントの紹介した竜王通りの店で、他の客たちとトラブルになっていると言う。グループの一人からSOSの電話が入ったらしいのだ。何が原因であるにせよ、宿泊客の安全を一刻も早く確保して上げなければならない。石垣や森下が駆け付けてくれるのを待ってはいられなかった。幸い、ライムライトと言うお店のママは、母が懇意にしていた林田弘子(ハヤシダ ヒロコ)なのである。自分が行けば、上手に収めてくれるかもしれない。そんな淡い期待も胸の内にはあった。しかし、お店の扉を開いた途端、尋常ではない殺気に、凪乃の足は瞬く間に竦んでしまっていた。
「へえ…、おめえが噂の若女将か。」
カウンターにいるママの弘子が、小刻みに、慌てて首を横に振ってみせた。沖むらの客が、こっそりトイレで電話していたことを知らなかったのだ。時をみて、男たちをうまくあしらうつもりでいた。しかし、凪乃の登場は、予想外だったのだ。それこそ、火に油を注ぐ逆効果でしかない。飛んで火にいる夏の虫だった。この手の男たちが、彼女ほどの美人を無事に帰す見込みは全くないからだ。知っていれば、絶対に来させなかった。この先に何が起こるかは、火を見るよりも明らかなのだ。もはや店の女の子たちも、接客どころではなくなっていた。
「どう落とし前付ける気だ?」
彼らの危険な視線が、凪乃の華奢な姿態に注がれている。未だかつて、これほどの上玉を見たことがなかった。本当に、この世のものとは思えない。噂にたがわぬ、それ以上の美人ではないか。互いに顔を見合わせ、今夜の幸運に狂喜したのだ。手早く剥ぎ取れる普段着姿であることも、男たちの情欲に火を着けていた。五分もあれば、丸裸にできる。
「こいつらの代わりにおめえが付き合うなら、今夜は見逃してやってもいい。」
「やめて下さい!」「いや、放して!」
相手の男の一人が、彼女の腕を掴んだのだ。仲間たちも心得ている。別の男が、トイレの扉を開けていた。微塵も猶予を与えずに、そこで凪乃に乱暴するつもりであった。警察を呼ぶと叫ぶ弘子の声が空を切る。こんな狭い田舎町で、わざわざ公にするはずがない。過去の経験値でそれを知っているのだ。顔面蒼白の沖むらの客たちも、この隙に逃げ出すべく、すごすごと席を立っている。否、関わりたくない客の全員が、一斉に席を立っていた。
「何事だ!」
まさに万事休すであった。舎弟の須藤に伴われた黒岩が現れたのだ。しかも、彼ら幹部の目の前で、まさかに彼女は、自分の腕を掴んだ男の頬に、渾身の平手を張っていた。
「このアマーっ!」
烈火の如くに怒り狂った男の鉄拳が、凪乃の顔目がけて飛んできたのだ。反射的に目を閉じた彼女には、その刹那に何が起きたか分からなかった。時が止まったように静まり返った店の奥で、凪乃は、閉じた瞼をこわごわとゆっくり開いていったのである。
「お前ら、二度とこの女に手を出すんじゃない。」
まさに間一髪で男の拳を寸止めした黒岩がそこにいた。
「怪我はないか。」
「あ、はい。」
見詰め合う美しい若女将の瞳と、極悪人の鋭い瞳が、運命の訪れを共に感じていた。生まれて初めて凪乃の胸は、未知の異性に対する迸る激情に忽ち早鐘を打っていたのだ。黒岩の全身も、炎のように熱くなっていた。あろうことか。数千年もの時空を越えた伝説が、最も清らかな魂と、最も邪悪な魂との間で、今、白竜浜の潮が満ちるように始まろうとしていた。




「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/446674893
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック