無知の知|ぬくもり3-20

 無知の知。全知全能なる神以外は、自らが無知であると知ることで、物事に対する探究心をいだくことができるという、あの哲学者ソクラテスの有名な考え方だ。哲学は、人間とは何か、をとことん追求する学問であった。残念ながら、人は、自らが知識に飢えていると自覚することができない。空腹であれば、所かまわずお腹が鳴る。それが、生命を維持するための本能の働きであるからだ。食べなければ、やがてはやせ衰えて死んでしまうだろう。しかし、知識は飢えを感じさせてくれない。話せて、読めて、書ければ、慣れた日々の中で生きるに十分だからだ。余程の必要に迫られなければ、ある時点を境に、人は積極的に新たな分野を学ぼうとはしなくなるのであった。それでも、人は知識に飢えている。知らない世界に足を踏み入れた途端に、自らがこれほど知識を欲していたと気付かされる時がくるのだ。そして、知識への欲望が抑えられなくなって、貪るように片っ端からかじり付くだろう。無知の知とは、自分が無知であると、遜って恥じることではない。自分がまだ、殆ど何も知らないことを認めて、あらゆる学びを歓びに変えることであった。せっかくの知り得る機会を、自ら逃してしまわないことでもあった。それこそが、無知の知なのである。
「ふん!」
噂を聞かされた彼の第一声であった。
「こっそり貯めてたらしい。
悪い話はすぐに伝わる。それは、病院内でも同じであった。仕入れてきたのは、やはり西川だ。大田は言葉を失くして、俊哉は一言吐いて横を向いてしまった。
「たまたまだったそうだ。」「たまたま、同室の患者が隠すのを見たらしい。」
リハビリルームに顔を見せなくなった患者が、多量に睡眠薬を集めていたそうなのだ。何のためかは、考えるまでもない。皆も、紙一重の差で頑張っているのだ。
「全く分からんわけでもないが…。」
大田はそう呟いて、窓際にいる敦夫を見た。
「それしか答えがなかったんだろう。」「死にたい奴は、結局止められない。」
「ふん!」
もう一度、俊哉は西川の言葉に憤ってみせた。
「また別の方法を選ぶだけだ。」「生きてたほうがいいかどうかは、本人しだいだ。」
大田も、投げやりな言葉しか思いつかなかった。
「死ぬのは、最後の手段だ。」「その前にやることがある。」
そう言って、俊哉は又も敦夫の隣に並んでいった。
「俺と賭けをしないか。」
無論、彼が言葉を返すはずもない。それでも、俊哉は諦めなかった。
「1か月だ。」「必ず1か月で運転できるようになってみせる。」
大田と西川は、その無謀なセリフに驚いた。
「俺が1か月で運転できるようになったら、お前を車椅子バスケの見学に連れて行く。」
その気のない相手に、彼らからは意味を持たない提案に思えた。
「俺が負けたら、二度とお前に声をかけない。」
「松山さん、それは大変おもしろい。」「私が、見届け役になりましょう。」
あの作業療法士であった。まずは、実際を知ることなのだ。きっと、本心では見てみたいと思っているに違いない。顔を背けたままで、敦夫は拒もうとはしなかったからだ。遂に、松山俊哉と広岡俊一との、二人三脚の挑戦が始まる時がきたのであった。

 現実的な結婚の文字を意識した時、友則の胸に迷いが生じたのだ。本当にこのまま、七つも年上の、自分の上司とそういう間柄になってしまってよいのであろうか。次のデートで、確実に男女の関係になれる。不思議なことに、そう約束された時から、南条正美に対する強い憧れが、急激に薄らいでいくのを感じていた。勢いに任せてそうなっていたなら、あるいは盲目的に彼女の虜になっていたのかもしれない。しかし、今はお互いが、結婚を前提にした恋人として結ぶ契約書にサインしてしまったような、正美に負わせた不本意な義務の履行を取引の開始と考えて待っているような、夢中で恋をしている感覚とはほど遠いものだった。ずっと、こうなることを密かに望んできたのだ。彼女の全てを知りたい気持ちに変わりはなかった。だが、それは、高嶺の花を手にしてみたいと言う、見上げる者の征服欲であったのかもしれない。彼の迷いの原因は、その後のことだった。今日まで募った想いを遂げた後に、何が自分を待っているのだろう。もしかして、取り返しの付かないことなのではないか。我に返った瞬間、猛烈な後悔に襲われるのではないか。そんな強迫観念さえ湧き起っていた。友則の心にブレーキをかけているのは、無論、小紅螺の存在であった。
「ふーん、そうなんだ。」
実家で、口惜しい時を過ごす姉は、弟の恋愛相談に乗っていた。今の知世の胸の内は、本当はそれどころではないのだ。仲の良い二人であった。悩みを打ち明けられたら、ついつい真剣に聞き入ってしまう。大切に思う友則に、やさしい彼女が感情移入していった。
「私より年上なのね。」「そっか、そうなのね。」
「やっぱり、姉さんはイヤか?」
「私は、イヤなんかじゃないわ。」「うふっ、でも、可愛い妹扱いは無理かも。」
小紅螺なら、姉の反応も違っていたであろう。そう考えずにはいられなかった。
「ただ、気になるのはお子さんのことね。」「ほかの男性の子の親になるわけだから。」
自分で話しておきながら、知世に言われてみて、初めてその意味に気が付いたのだ。正美の子供なのだから、たとえ全盲の視覚障害者であっても、いざ結婚となれば、きっと大切にして上げられる。彼は漠然とそう考えていた。しかし、彼女の別れた夫の子供でもあるのだ。一体、どこまで本気で愛して上げられるのだろう。どんなに愛情を注いでも、他人の子供に違いはなかった。あの夜、正美は結婚を連想させる単語を、さり気なく口にしていたのだ。
「それに…。」「何か別のことでも迷ってるんでしょ?」
「え?」
小紅螺の顔が浮かんだ。
「その人との問題だけじゃなさそうに感じる。」
「あ、う、うん。」
友則は、もう一人の、気になる若い女性の話を始めたのであった。



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