感涙|ぬくもり3-21

 むくつけき男たちの、殺伐としたヨットハウスの一日が終わっていた。夜明かしで島の警戒にあたる数名以外は、ぎっしりと二段ベッドの並んだ地下のタコベヤで、全員が競うように大きな鼾をかいている。彼らのために用意されている娼婦たちも、かなりの酒量を呷って、それぞれの個室で深い眠りに就いていた。黒岩武雄は、三日月形に囲まれた砂浜の照明を落とさせて、独りでその浜の南の端にきたのだ。目の前には、漁火すらない漆黒の闇だけが広がっていた。物心付いた頃から、この闇に酷似の、ぞっとする悪夢にうなされ続けてきたのである。恐らくは深海であろう光の届かない場所で、何かに怯えながら泥の上を這っていた。得体の知れない巨大な生き物が、物ほしそうに獲物を探して、自らの真上の海中を執拗に泳ぎ回っている。彼にはそれが、大切な人たちを捜す竜の姿であるとは分からなかったのだ。
「お前が、闇の中の俺の姿だったのか。」
彼はそう言いながら、恐れることなく波打ち際に歩み寄っていった。濁流に呑まれ、重い甲羅の亀の姿に変えられたのだ。海を泳げるまでに進化した時、孤独な竜の命が尽きていた。
「あの化け物が、伝説の竜だったとは…。」
その手は、オトの頭に触れていた。この瞬間のために、白い海亀たちは何千年も命を繋いできたのだ。彼の背負った厳しい宿命と、立ち向かうべき運命と、成すべき天命の全てが伝えられていった。なぜ、こんな極悪人として、美崎凪乃と出逢うために生まれてきたかもだ。
「本当に俺なのか。」「本当にあの人なのか。」
大きな白い亀は、これが最後の機会であると伝えて海中に没していった。この島で神の嫉妬によって引き裂かれた若者の魂のみが、未完のまま最後の輪廻転生を終えたのである。ナニワイバラによって受け継がれてきた魂の断片が、その瞬間がくるまで、未だ、別の人間たちに託されていた。慈愛の心も、正義の心も、愛欲の心も、そして深い嫉妬の心もだ。美崎凪乃だけが、伝説の白い竜の魂を完全に宿しているのであった。

 充分に楽しんだ海野正孝は、順番待ちしている堀田卓郎のために、シャワーを浴びておくように命じて部屋を後にした。多重債務に陥った若い人妻を、ヤミ金の取り立てから、言うことを聞くのを条件に救ってやったのである。真面目な漁師の旦那は、遠洋漁業で半年に一度しか戻らない。寂しさを持て余す内に、悪い男に入れあげ、借金までして大金を貢いでいた。そうなるかなり前から、居酒屋で働く彼女に、目敏い堀田が狙いを定めていたのだ。
「どういうことだ?」
竜王通りでは、すでにその話で持ち切りであった。
「鬼ヶ島の連中を、そいつが一喝したそうです。」
「だとしたら、黒岩かもな。」
「黒岩って、あの?」「あの黒岩ですか?」
「ああ。たぶんな。次の総長の筆頭候補さ。」「裏社会のドンになる超の付く大物だ。」
「ちぇっ!」「至極面倒な野郎が出てきましたね。」
「言葉に気を付けたほうがい。命知らずの兵隊が、奴の下に五万といるんだ。」「黒岩が目配せするだけで、俺らのことなんかどうにでもなる。」「壁に耳あり、障子に目ありだ。」
美崎凪乃に手を出すな。その言葉が、狭い町で独り歩きを始めていた。なぜ悪党の一人が彼女を庇ったのか。二人がどういう関係であるのか。噂が噂を呼んで、忌まわしい過去まで引き合いに出され、皆の下種な妄想を掻き立てていたのだ。地元の者にとっては空白の10年が、おもしろおかしく、格好の着色材料にされていた。だが、いずれにしても、海野が無視できない情報であった。これだけ騒いでいる以上、知らなかったでは済まされないだろう。
「まっ、作戦変更だな。」
「へへっ、絶対に諦めないと思ってました。」
「こっちから派手にやって、奴らにバレなきゃいいだけだ。」
「おっしゃる通り。」「じゃあ、俺も楽しませてもらってきます。」
すでに寝間着を着た頃であろう女の部屋へ、たらふく食べてさらに腹の突き出た堀田が向かった。海野は苦々しそうに顔をしかめて、姑息で邪な策に知恵を巡らせ始めたのである。
「ますます欲しくなった。」「必ず俺のものにしてやる。」
彼らが上物を弄ぶ際に使う“海乃夢庵”の大きな湯殿で、海野正孝は、まだ見ぬ美崎凪乃の無垢な白い肌を思い描いていた。黒岩の出現が、彼にとってはさらなる刺激となったのだ。偶然か、自発的に見えればそれで良かった。トンビに極上の油揚げをさらわれる前に、そう仕向けなければならない。彼の思案はフル回転し、事を急がんとして焦り出してもいた。

 人から何かを学ぶに、年齢が上か下かは関係がない。しかし、まさかに美玲は、小紅螺から学ぶことになるとは想像だにしていなかった。きっかけは、彼女から送られてきたメールの内容であった。自分にそのことを聴いてほしかったのであろう。このところ、自宅で久々に筋トレを再開したと書かれていた。もちろん、トレーニングジムで行う本格的なものとはかけ離れている。かなり軽めの鉄アレイなどを利用した、短い時間だけの無理のない範囲のものなのだ。それでも、失われていった筋肉を、わずかずつでも取り戻せるのかもしれない。否、少なくとも現状が維持できるなら、もしかしたら未来が大きく変わるかも知れないと締めくくられていた。美玲は初め、小紅螺のメールを微笑ましい気持ちで読んでいたのだ。こんなにも前向きになってくれた。かるがもに通い出した頃の暗さが、まるで別人のようにさえ思えてくる。皆のサポートは言うに及ばず、小紅螺自身の気付きが大であった。そして、そのすぐあとから、小紅螺の筋トレの本当の意味に思いが至ったのだ。
「彼のためですこと?」「まあ!」
どうやら、小野寺友則のためであるらしい。わざわざ追伸で、旅行のことに触れていた。電車の中で隣に座ったら、自分の病気について問われるかもしれない。その時、臆せずに話せる勇気が欲しいと書かれていたのだ。だから、できることは何でもやってみる。結果がどうであれ、何もしないで、何もしなかった自分への後悔だけはしたくないと、切々と恋を諦めない小紅螺の想いがつづられていた。かるがものメンバーにも、恥ずかしくない自分でいたいと、美玲の胸にその言葉の一つ一つが突き刺さったのだ。
「わたくしも。」「負けていられませんわね。」
すがすがしい感涙に、彼女は、小紅螺の頑張る姿が見える気がしていた。そして、自らも行動を開始したのである。自分が次に流す涙を、歓びの涙とするために…。



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