炎|ぬくもり3-22

 緞帳の降ろされた、大広間の舞台の上が、菊川由莉のアトリエ兼作業場となった。横幅が8m、高さが3mもの作品に挑むのは、さすがの画伯も初めてなのだ。特注の巨大な用紙は、すでに表装屋に依頼した。だが、彼女のあみだした特殊技法を用いても、描き切れるかどうか、正直なところ、まだやってみなければ分からない。それでも引き受けたのだ。なるほど、菊川由莉の男前の本領発揮であった。高い壁ほど、乗り越えずにはいられなかった。
「何て言えばいいのかしら。」「先生のナニワイバラ、本当に創造以上です。」
8分の1ほどの、下絵の段階であった。実際に描く時には、もうすぐ春休みに入る渚が、アシスタントを務めることになっている。凪乃は、その下絵を確認に訪れていた。八重子は、昨日の朝に一旦帰宅したのだ。二人きりの空間だった。父のこよなく愛した白いナニワイバラが、仲良く寄り添うように咲いた三輪で見事に描かれている。皆には、母の奈津美と自分たち姉妹であると説明していた。しかし、本心では、父と母、それに妹の三人を描いてもらうつもりでいたのだ。父を殺した自分には、その中に加わる資格がない。自らそう決めていながら、心が寂寞とした想いに駆られてしまう。凪乃は、それに気付かれまいとして、せいいっぱいに明るく振る舞っていた。高校二年の、あの夏の日さえなければ、今も、やさしい父の笑顔が隣にあるはずだった。あの忌まわしい夏の日さえなければ…。
「なぜじゃか分からんが。」
由莉は、若女将が差し入れた珈琲を手にしていた。
「清純な愛と言うより、わしには、もっと力強い愛のイメージが浮かんでおる。」
「力強い愛ですか?」
「清純なだけでは、本当に大事な愛を、自分で護りきれぬからのう。」
凪乃の頭に、あの夏の日の夜が蘇ってきた。
「愛は時に。」「己の命を捨ててでも、全力で護るべき掛け替えのないものであろう」
未来の沖むらを背負わせるべく、父の言葉とは異なり、母の奈津美からは厳しく育てられていた。学校の部活以外にも、毎日が塾や習い事の連続で、恋はおろか、女の友達と遊ぶ暇さえなかったのだ。幼い凪乃には、息の詰まる毎日であった。それこそ、箸の上げ下ろしにまで、細かな指摘が飛んでくる。それが、海よりも深い母の愛とは気付かずに、大人になる一歩手前で、少しでも解放されたいと考えていた頃だった。
『え、本当に?』『本当に私を誘ってくれたの?』
たちまち気持ちが高揚していた。遊びに誘われたのは、何年ぶりのことだろう。真夏の夜を彩る、白竜浜の盛大な花火大会が直前の蒸し暑い夕暮れ時だった。背にしたベッドで眠る小学生の渚は、一度寝息をたててしまったら、少々体を揺すっても簡単には目を覚まさない。独り、離れで勉強する凪乃に、弁当を運んで来た臨時雇いの仲居が声をかけたのだ。
『今夜は滅茶苦茶忙しいから大丈夫。』『ふふっ、後は私に任せて下さい。』
『あん、でも、やっぱり…。』
『みんな、お嬢さんに来てもらいたいって言ってました。』『いいチャンスですから。』
毎日こうして顔を合わせる内に、凪乃は、言葉巧みな彼女に、悩みを打ち明けるようになっていた。母に対する不満も、わずかな時間でも自由が欲しいと望んでいることもだ。
『そうよね、ちょっとだけなら、いいのかも。』『教えてくれてありがとう。』
今夜の花火大会の時間に合わせて、地元の若い女の子たちが、楽しげなシークレットイベントを企画していると言うのだ。凪乃がサプライズで参加すれば、絶対に盛り上がる。だから、急だが来てもらえないか。顔を出す程度でもかまわないとのことだった。せっかくの誘いだから、羽を伸ばしてくればいい。たまたま自分が彼女たちから言伝されたのも、今夜がお嬢さんにとって幸運である証に違いないと思う。きちんと手はずを整えるからと、いかにも思いやりに満ちた眼差しで、それでも微妙に逡巡している美少女に決断させたのであった。
『いってらっしゃーい。』
夜空に大音響を響かせて、浜では恒例の花火大会が始まっている。迎えに来てくれるはずの時間に合わせて、凪乃が足を急がせたのは、徒歩で五分ほどの第三駐車場にある沖むらの備品倉庫で逢った。旅館からは完全な死角となる位置で、夜間は人が全く寄り付かない場所なのだ。無論、普段は厳重に施錠がしてあった。やましさと大きな期待で平常心を失い、人目を忍ぶ少女は、不審に感じるどころか、真っ暗な扉の奥まで慌てて駈け込むだけで精いっぱいだったのだ。自らその扉をぴしゃりと閉めて、ようやく胸を撫で下ろしていった。
『騒ぐな。』『逃げようとしたら、遠慮なく刺すぞ。』
繁忙期となる夏休みの期間だけ高額で雇われた“助っ人”と呼ばれるアルバイトの板前であった。アルバイトと言っても、高齢のために現役を引退した即戦力なのだ。昨年の夏に見た時から、段違いの美少女に目を付けていた。あの仲居は、彼から金を握らされていたのだ。
『大人しくしてりゃ、すぐに済ませて、ちゃんと帰してやる。』
後ろ手にガムテープが巻かれ、口にもピタリと貼られていった。怯えきった少女を床に転がすと、男は、用意していた数本のロウソクを灯したのだ。この程度の明るさなら、外へは決して漏れない。万一激しく抵抗されても、花火の爆音が掻き消してくれるだろう。何もかも予測し尽していた。今日までの謝礼も前借りしておいた。わが物にした後で、凪乃が半狂乱となって取り乱すようなら、皆が騒ぎ出す前にトンズラすればいい。だが、この聡明で気丈な娘なら歯を食い縛って、あの女将に隠し続けるのではないか。そうなれば、これからも毎晩、飛び切り美しい少女の若い肌を弄ぶことができる。きっと、その先の人生も、自分の老後のおもちゃにして、思うがまま仕込んで雁字搦めにできるだろう。さまざまに聞きだしていた仲居の情報で、老獪な板前は予めそう踏んでいた。
『俺が初めてだろ。』『やさしくしてやるからな。』
キメ細かな白い肌に息を呑んだ。瞬く間に、ブラウスのボタンが外されていた。お気に入りのジーンズの留め具もだ。自らも臨戦態勢を整え、涙目の少女の目の前に、きらりと光るジャックナイフを置いて、老体を覆い被せたのである。小刻みに震える背中に、彼は素速く、少女の脇腹から手を滑り込ませていった。
『安心しな。お前が黙ってりゃ、絶対にバレねえ。』『それがみんなのためってもんだ。』
鼻息荒く耳元で囁いた。清楚な白いブラのホックにまで太い指先が届いたのだ。具体的なことは何も覚えていない。殆ど同時に飛び込んできた父と男がもみ合いとなり、ナイフを掴みながら、血だらけで逃げろと叫ぶ悲痛な声が、火の海となる倉庫の中で轟いたのだ。倒れたローソクの火が、在庫の固形燃料に引火して、大量のカセットボンベの缶が、次々に爆発したのはその直後であった。皆が駆け付けた時、倉庫は巨大な火柱を上げていたのである。
『お嬢―っ!』
『お父さんが!』『お父さんが中に!』
紅蓮の炎が、魔王のごとくに燃え盛っていた。今も、あの時の恐怖が彼女の脳裏から離れない。否、時が経てば経つほど、自らの犯した罪の重さに苛まれているのだ。
『おやっさん無理だ!』
『もう手遅れです!』
『放せ!社長が!』『放せーっ!社長がーっ!』
必死に飛び込もうとする森山を、板場の若いし二人が体を張って押しとどめていた。
『お父さんーッ!』『いやあああーっ!』
離れのベッドで熟睡していた妹が、トイレに起きて、お姉ちゃんがいないと騒ぎ出したのだ。逃げ出すつもりの仲居を、運よく父が見付けて問い詰めた。渚が森下に知らせに走る間に、彼は旅館を飛び出していた。消防団が到着した時、倉庫は既に燃え落ちていたのだ。茫然自失として立ち尽くす母と、自らの胸にすがり付いて泣く妹の声までもが、自分の父を死なせてしまった美崎凪乃の脳裏に永遠に刻み込まれていったのである。死ねないから生きている。生きているから、自分を許すことができずに苦しむのだ。老舗旅館の社長に起きた前代未聞の惨事は、その夜の内に狭い町の隅々にまで知れ渡っていた。天を焦がす業火の前で目撃された、衣服の乱れた美少女の姿も、退屈しきった老若男女の妄想と憶測を掻き立てるに十分だったのだ。凪乃は、あたかも犯罪者の如くに、ふるさとの町を追われていった。
「じゃが、時に愛は。」「どんなにみじめでみっともなかろうが、石にかじりついてでも、せいいっぱいに生きて、全身全霊で護り抜かねばならんものでもあろう。」
もう一度、白いナニワイバラに目を落とす若女将は、もはや頬を伝う涙を止めることができなかった。あの忌まわしい事件のことを、知ってか知らずか、核心を突く由莉の言葉が、今日まで孤独だった凪乃の心を大きく揺さぶっていったのだ。
「ただ、一つだけ確かなことは。」
画伯は、残りの珈琲を飲み干した。
「どんな形の愛でも。」「愛は、愛であるだけで、この世の中で最も尊いということじゃ。」
「最も。」「尊いのが、愛。」
この日を境に、彼女は、特異なオーラを放つ菊川由莉に心を開くようになっていった。




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