摩利支天|ぬくもり3-23

 白竜駅で任意での同行を求められた田所万作は、千穂の前では、狐にでもつままれたような顔をしていた。しかし、二十年前の改築工事にまつわる事情聴取であると告げられた刹那に、彼は、くるべき時がきたことを内心で悟っていたのかもしれない。妻だけを帰りの電車に乗せたのだ。心配いらないと笑顔を見せる夫に、千穂は動じることなくうなずいていた。万作ほどの男と連れ添うということは、こういう事態も十分に想定されるのだ。その意味において、彼女は肝が据わっていた。さっそく、会社の顧問弁護士に電話を入れたのである。
「何の話か、さっぱり分からん。」
取り付く島もない。知能犯や凶悪犯罪と全く無縁の田舎警察で、海千山千の剛腕常務と呼ばれてきた男を相手に、彼らが容易に取り調べのできるはずもなかった。それなりのベテラン刑事が担当しているのだが、すでに万作からなめられている。逮捕令状もなしで、これ以上の拘束には無理があった。万作は、弁護士の到着を待たずとも、間もなく解放されると考えていた。
「署長の五十嵐です。」「水入らずの旅行を、台無しにしてしまいましたね。」
剛腕常務にとっては、ただの若造であった。キャリア組でも、こんな田舎町の署長なのだ。出世コースとは程遠い、愚鈍な落ちこぼれの一人に違いない。あのことを捜査しているのなら、余りに役者が貧相だった。笑止千万の極みではないか。時間の無駄も甚だしく思えた。
「なら、これで帰らせてもらおう。」「こんな所で油を売ってる暇はないんでな。」
「残念ながら。」「そう簡単にはいかないんです。」
「君ねえ。」「私は顔の広い男だ。先のことも、よく考えて判断したまえ。」
青二才の、もどかしい判断を待つまでもない。任意である以上は、席を立つことにも許しは必要なかった。たまたまこの地を再訪した自分を、当時の警官の一人が見とがめて、何の確証もないまま勢いで同行を求めたのだ。田舎警察など、そう見切れば、怖れるにたりなかった。
「あの鬼ヶ島に、黒岩武雄が戻って来ました。」
さっさと旅行鞄を手にしていた万作の動きが止まった。なぜ見とがめられたのか、今のセリフで合点がいったのだ。偶然重なったにしては、自分でも確かにでき過ぎに思えた。
「黒岩?」「初めて聞く名だ。」
「初めてですか。それはおかしいですね。」
「これ以上は付き合いきれん。駅まで、すぐにタクシーを呼んでくれ。」
「二十年前、売り出し中の黒岩と、あなたは頻繁にお会いになってる。」
「意味不明だ。つまらん言いがかりはやめてもらおう。」「見ず知らずの相手だ。帰る。」
「当時の署長は、あなた方を、とても恐れていたようです。」「こんな写真を、部下に隠し撮りさせていました。」「彼が転任後に突然死した時、奥様が偶然に見付けられたそうです。」
セピア色したフレーム内に、黒岩と自分とのツーショットが、きっちりと鮮明に収められている。どの写真も、親密さを窺わせるものばかりなのだ。鬼ヶ島に一番近い、大規模なリニューアルを施工した白竜温泉社のリゾートホテルの内外で撮影されていた。
「知らん。全く記憶にない。」「だれだか知らんが迷惑だ。」「もうたくさんだ。帰るぞ。」
正義感の塊のごとき五十嵐十兵衛の目が、明らかに動揺している被疑者の背中に向けられていた。新たな所長として着任したのは、愚鈍だからでも落ちこぼれだからでもないのだ。頭脳明晰な上に勇猛果敢なこの若者しか、絶対に成しえないであろう熾烈な戦いに向け、満を持して、名だたる悪党どもが跳梁跋扈する白竜浜に送り込まれてきたのである。
「あなたは。」「国家を味方につけますか。それとも、敵にまわしますか。」
「何だと?」
大言を吐く若造に振り返った時だった。小賢しいと感じ始めていた五十嵐と言う署長が、戦の女神、摩利支天を背にした武将の姿に見えたのだ。万作の背中を冷たい汗が流れていった。

 あれから、遅々として進まなくなった関係に、正美は、不安と焦りを覚えていた。まさかに、自分から彼を誘うわけにもいかない。今度のデートでは、拒まないと約束しているのだ。自ら誘えば、催促していると誤解されかねないだろう。本当は、やせ我慢していたのではないかと、蔑まれてしまうかもしれなかった。あんな約束をしてしまったことが、返って自分たちの手かせ足かせとなっている。もっと自然に友則を受け入れていれば、彼自身が真剣に将来のことを考えてくれていたかもしれなかった。慎重でありたいと思うがゆえに、石橋を叩いている間に壊してしまったのだろうか。今は、どうしたら良いのか分からなくなっていた。
「はい、そうなんです。」「今、検討しています。」
今夜も強引に引っ張り出されていた。
「はははっ、そうか。」「南条君のとこなら有り難い。ぜひそうしてくれ。」
夕食の相手は、地区長の郷田晴久(ゴウダ ハルヒサ)だった。昨年の春から広範囲のエリアを任されている彼女の上司なのだ。わざわざ正美が預かる事業所近くにマンションを借りていた。今回は単身赴任で、食事に誘われるたび、妻とは別居状態で、いずれ別れるつもりだと聞かされる。言わずと知れた、格好な浮気相手として、遠回しに口説かれているのであった。
「そうだ。サンプルが私のマンションにあるんだが。」「帰りにちょっと見ていかないか。」
また始まった。辟易とする瞬間だった。
「あ、でも、それは改めて事務所で拝見します。」
「遠慮なんかしなくていいんだ。」「珈琲くらい出すから。」
「そろそろ両親が休む時間ですので、すみません。」
毎度、女性であることの虚しさを旨の内で禁じえない。自分が独り身だからなのか。それとも、都合の良いタイプの女に見えるのだろうか。彼女は、あの手この手で誘う郷田晴久の言葉をかわして、何とか今夜も無事に解放されたのであった。
「家まで送ります。乗って下さい。」
上司と別れた後で歩道に横付けしてきたのは、帰宅したはずの友則の車だった。
「ずっと待っててくれたの?」
「あの郷田地区長、魂胆が見え見えだから。心配で…。」
「ありがとう。」「なんだか、すごく嬉しい。」
「いいから早く乗って下さい。」
この時の歓びを、どう表現すれば良いのだろう。正美は、目頭が熱くなるのを感じていた。どんどん自宅が近付くのが悲しくなって、思わず彼の膝に手を伸ばしていたのだ。もう、どう思われても構わない。自ら催促する、はしたない女で充分だった。
「小野寺君が、好き。」
真っ白なシーツにくるまれて、正美は愛おしそうに、ようやく結ばれた彼の顔を見上げていた。しかし、友則は気が付いていたのだ。自分が、どこか冷めているかもしれないと。こうして想いを遂げたのに、心の迷いがやはり大きくなっている。あの純粋な小紅螺を、独占欲と甘い誘惑に負けて、とうとう裏切ってしまった。そんな後悔の気持ちでいっぱいだった。
「正美さん…すごい…です。」
それでも、再びシーツにもぐり込んでくれた彼女に、夢心地となっていくのであった。





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