ワインの味|ぬくもり3-24

 ぐでんぐでんに酔っ払った客たちが、一人また一人と、右へ左へ体をふらつかせながら島から出ていった。今夜も、カウンターの中は、大量の皿や小鉢、ジョッキやお銚子などの洗い物で埋め尽されている。女将の島野香織は、看板の照明を落として暖簾を仕舞った。
「何か食べる?」
いつものカウンター席で、一番奥に座る永井譲二に声をかけたのだ。
「ああ。」
「焼きうどんでいいかい?」
「少な目でいい、頼む。」
二人分を焼いた香織が、彼の隣に掛けてきた。冷えたビールグラスが2つ。勝手に注いで、一人で乾杯していった。譲二も、黙ってグラスのビールを飲み干した。
「どう?」
「美味い。」
「そうかい?良かった。」「やっぱり、焼きうどんは醤油に限るね。」
もう一杯、彼女は互いのグラスに注いでいった。毎夜、こうして肩を並べている。ただ、それだけだ。名前以外は何も知らない。知らなくていいと、香織はそう思っていた。
「外は、粉雪が舞ってたわ。」
「積もりそうか。」
「どうかねえ。」「まだ、降り始めだから。」
カウンターの灯りだけとなった店内には、酒に似合いの演歌が小さく流れていた。情に深入りすれば、今度も出られなくなる。男と女はそうしたものだ。夢見るたびに騙されて、貢いだ挙句に捨てられてきた。それでも懲りずに、また儚い夢を見る。こんな片田舎の場末の酒場には、侘しい演歌の文句がよく似合う。とことん惚れて、とことん泣いて、酒の力で独りきりの夜を明かしてきた。だから、何も知らなくていい。積み上げる思い出の分だけ、別れた後の未練となるのだ。昨日のことは忘れてしまった。明日のことは遠すぎる。今、この時だけ、そばにいてくれる大切な人であればそれで良かった。隣同士で身を寄せ合ううちに、互いの心のぬくもりが伝わってくる。そのぬくもりで、今夜の寂しさを埋められた。
「傘なら、あるからね。」
もう戻ってこない傘の数だけ、通り過ぎていった男たちの数になる。ふと、そんな想いを浮かべながら、香織はカウンターで洗い物を始めていた。毎晩決まった金額の勘定を置いて、永井譲二は店の引き戸を後ろ手で静かに閉め、香織に借りた花柄の雨傘を開いていった。

 患者が、自分の治療方法を自らの判断で選べない。今の医療がかかえる最大の問題がそこにある。康介は、そう考えていた。知識のない相手にろくな説明も行わず、なぜそれが必要なのかも分からない患者に、あれやこれやと検査や看護を受けさせて、より多くの診療報酬を得るシステムになっているからだ。標準治療が罪作りなのは、そこに競争の原理が働かないことだった。どの病院を選んでも、金太郎飴の如くに治療内容は変わらない。わずかな差異があるのは、医師のやる気と看護師の熟練度くらいであった。一元的な医療費の抑制が、瞬く間に総合病院の経営を破綻させてしまったのも、競争に晒されていない虚弱体質であったからなのだ。いつの日か必ず、患者たちのクーデターが始まる。誠意と実力のない医療機関は排除される時がくるであろう。彼は、そうも考えていた。
「美崎…凪乃。」「白竜浜。」「沖むら、と。」
康介は、隣の町の高台にある柳生の家の自分の部屋で、夜中に検索を続けていた。あの清楚な美しさが目の奥に焼き付いてしまい、仕事中以外は、凪乃のことしか考えられなくなっている。もっと情報を集めたい。美崎凪乃に関することなら何でも詳しく知りたかった。毎夜、こうして彼女のことを調べずにはいられなかったのだ。ネット上には、凪乃の画像が氾濫している。沖むらを訪れた宿泊客との記念撮影から、本人の了解なく偶然に撮影されたものまで、若女将として働き始めて以降、これほど短期間に驚くばかりの写真や動画がアップされているのだ。しかし、検索すればするほど、康介は不可解な思いにも駆られていた。沖むらで脚光をあびる前の彼女の記録が殆ど見当たらない。まるで、ごっそり削除されてしまったかのように、どんなに検索しても見当たらなかった。あれほど注目される女性なのだ。良きにつけ悪しきにつけ、相応しいだけの記事や口コミがヒットして当然に思えた。この世のものとは思えない美に加え、その謎ともどかしさが、彼の心をますます虜にしていたのである。
「まさか、ほんとに天女なのか。」「はあー、これじゃあ、俺がまるでストーカーだな。」
効率的な病院経営を追求する父に対する反発で、慈愛の心に満ちた彼は、町の診療所でのボランティアを即答で引き受けていた。だが、康介は、それが美崎凪乃と出逢うための導きではなかったのか、そう考え始めていた。すでにその想いは恋しさを越え、無上の愛おしさへと様変わりを始めている。時を越えた魂の一部が、彼の中で目を覚ましたのであった。

 木村碧は、日暮れに招かれた美崎家の玄関で、挑発的な服装で出迎えた渚に胸をときめかせた。体のラインがくっきりと出るスタイリッシュな衣服が、すらりと長い美脚を見せ付けるミニスカートだったのだ。女性として見られることを嫌う彼女が、それを持っていること自体も驚きであった。その上、案内されたリビングルームは間接照明だけが灯されていたのだ。セレクトされたBGMまで、如何にもムーディな雰囲気を醸し出している。渚の気持ちを誤解するなと言うほうが無理だろう。碧の胸は、高鳴る期待で大きく膨らんでいった。
「あ、まだ未成年でしょ?」
「え、やだ、飲んじゃダメなわけ?」
「うふふっ、私に訊くの?」
「じゃあ、今夜の私たちに乾杯。」
緋色のワインが、見詰め合う渚の唇に運ばれた。その細い指先でつままれたワイングラスになりたいと、碧は本気で妬ましさを覚えていたのである。否、ワインになって、なめらかな舌の上で転がされ、渚を妖しく酔わせてみたい。自分を存分に味わってみて欲しかった。
「どうかな?」「いけてる?」
手作りのオードブルが、彩り豊かに並べられていた。料理の美味さは、愛し合う時の上手さに比例する。渚の演出の全ての刺激が、碧の体の芯をどこまでも熱くしていった。
「お料理が上手なのね。どれも、とっても美味しい。」
「碧さんの笑顔が見たくて、頑張ったの。」
「こんな素敵な夜をありがとう。」
今夜が、最初のお泊り会だった。渚にその気がないことを、碧の理性は百も承知している。勝手に誤解して密かに期待をいだけば、自分がみじめになるばかりだった。それでも、胸はときめいてしまう。やはり、愛されたいと望んでしまうのであった。適度に回ったワインのほろ酔いが、沸き立つようなその切ない想いを後押ししていた。
「ねえ。」「あたしのこと、好き?」
二本目のワインを取りに行った渚が、彼女の隣に腰掛けてきたのだ。碧の顔が上気した。真横にぴたりと張り付いて、白い脚の膝頭を太腿の上に乗せ、小悪魔の眼差しで自らを差し出すようにそれを滑らせてきたのだ。
「好き。」「どうしようもないくらい好き。」
彼女の手から、渚がワインを取り上げていった。
「もっと。」「素敵な夜にしたいでしょ?」
見詰めたまま、グラスの残りを口に含んだのだ。
「して欲しい。」
飲み込まずに近づく唇に、見詰めていた瞳がゆっくり閉じられていった。
「もっと、素敵な夜に…して欲しい。」
その後の、碧の記憶は飛んでいた。我に返った時には、初めてベッドで愛されていたのだ。渚はついに、愛欲の心を制御できなくなっていた。そして、碧もまた、自分から渚を奪うかもしれない全てのものに、抑え難い強烈な嫉妬の心をいだくようになっていったのである。






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