踏み出す一歩|ぬくもり3-26

 まただ。葵はそう思った。なぜいつも、よりによって自分にばかり皆が相談してくるのだろう。勿論、恋愛の話は苦手ではない。長年連れ添った旦那に、胸のときめくはずもなく、いつも誰かに密かな想いを寄せて、乾いてしまいそうな心を潤わせているのであった。橘葵にとっての恋は、叶わないから楽しめる恋なのだ。ああだこうだと夢見るだけで、心がぱっと華やいでいく。運命の二人ではないのか。本当は相思相愛の関係。来世でこそ結ばれる相手に違いない。そんな妄想の世界を膨らませて、独りで自由にその中を泳ぎ回っている。現実にならないからこそ、どんなにドラマチックな展開も思いのままであった。なのに最近は、その恋愛の仮想の恋敵から、何の因果か、自分自身が恋の指南役として相談されている。敵に塩を送るどころか、気が付けば、まさかに敵の軍師にまで成り下がっていた。
「で、何て返事したの?」
「あ、まだお返事をしていません。」
白竜浜への旅行で、小紅螺と友則が幹事に指名されていた。二人は連絡先を交換し、それ以降、毎夜メールのやり取りをするようになっていたのだ。積極的なのは、やはり圧倒的に友則だった。しだいに旅行の打ち合わせを離れ、メールの内容はプライベートな部分にまで及ぶようになっていたのである。そして遂に、二人で食事に行かないかと誘われたのだ。
「あんたも行きたいんでしょ?」
忽ちその頬を染める小紅螺が、目を合わさずに小さくうなずいた。
「なら、二人で逢えばいいじゃない。」
「そうなんですけど…。」
「病気のこと?」
「はい。あ、でも、それよりもその…。」「こういうの、初めてなんです。」
どこまでウブなのだ。葵は、小紅螺のことが可愛くてたまらなかった。まだ、自分の病気についても、彼に話してはいないと言っている。どんな反応をするのか、二の足を踏む気持ちは分からなくもなかった。いきなり態度を変えられたら、小紅螺でなくとも耐えられないであろう。それとは逆に、病気のことを軽薄に受け止めるようなら、遊び相手の一人と宣告されるようなものだった。先々のことを考えれば、最悪の事態となっても、共に背負って生きてくれるであろう覚悟を持った男性が理想的なのだ。ただ好きだと言うだけでは胸に飛び込めない。その上に、折り紙付きの純情さであった。
「恋をする時は、誰でも初心者だわ。」
騒々しいかるがもの教室で、葵は、それでもやや声を落としていった。
「何かを保障されてる恋愛なんか、面白くないんじゃないかなあ。」
「面白くない、ですか?」
「先が分からないから、みんな夢中になれると思うの。」「恋に落ちるって言うでしょ。」
「どういう意味ですか?」
「恋は落とし穴だらけなの。落ちるのが恋。」「安心した途端に、恋は恋じゃなくなるわ。」
臆病になって欲しくはなかった。大切なのは、自分がどう想っているかだ。最初から百点満点の恋などあり得ない。いっぱい思い悩んで、たくさん後悔して、傷付き、泣いて、それでも、数え切れないほどの幸せな想いにつつまれるのが恋だった。
「本当の愛は、その恋を越えた先にあると思う。」
小紅螺は、葵の言葉の意味を噛み締めていた。
「愛にまで育つかどうかは、むしろ自分の問題じゃないかしら。」
「自分の問題…。」
そう言われてみて、初めて気が付いた。友則にばかり、事前に結果を期待していたのかもしれない。誰もが恋の初心者なら、まずは自分が努力をすべきであった。小紅螺にとっては、橘葵が恋の達人に見えている。本当は、葵自身が一番臆病なのだとは知る由もなかった。

 美玲の前には、想像以上の大きな壁が立ちはだかっていた。彼女はまず、かるがもの他に伝手を頼って、聴覚障害者とのコンタクトを試みたのだ。否、聴覚障害者本人と直接やり取りができるなら元々苦労はしない。当然、手話通訳の立ち合いが必要であった。そして、彼女自身にも同行援護が必要なのだ。ただ会うだけでも、4人のスケジュールを合わせなければならない。すでにその段階で、美玲の前途には暗雲が立ち込めているかに思えた。
「手話の限界は、同じ言葉の微妙な状態の違いを表現できないことです。」
通訳の女性が、聴覚障碍者の手話を訳したのだ。
「あら、どういうことですの?」
まず、使える形容詞が極端に少ないということ。それを補うために、顔の表情や、硬軟織り交ぜた手や指の動きを各自が工夫しているのだと言う。例えば、何かの可愛さを表現する場合も、“可愛い”に当たる手話はあっても、それがどれほどの可愛い印象なのかは型通りのものだけではそのイメージを伝えきることができない。思わず顔がほころぶほどの可愛さなのか、それとも、皆が目を見張るほどの驚くべき可愛さなのか。自ずと可愛いを伝える表現の方法が違ってくる。健常者が使う“てにをは”もないため、このフォローが稚拙であると、感情のない単語の羅列になりかねないのだ。ある意味では、英語のクールさに似ているのかもしれない。しかし、さまざまに情感豊かな日本語の生きた会話を、いざ同時に訳すとなれば、どんなに熟練した通訳でも伝えきれない部分が増えてしまうのは当然であった。
「まあ、奥が深いこと。」「でも、お話は分かり良くってよ、ね?」
「はい。私も勉強になります。」
美玲が極秘の同行援護を頼んだのは、あれ以来とても仲良くしている多賀瑞希なのだ。
「世界共通ではありませんし、地方によって方言なんかもあります。」
「オホホッ、そうなんですのね。」「覚えるのが大変そうですわ。」
瑞希は、今日の面談の理由を打ち明けられていた。まさかに、全盲の彼女が、本気で手話を覚えるつもりなのか。女の一念、岩をも通す。美玲は、常識に囚われず、自らの努力で、不可能を可能に変えようとしている。人を好きになるとは、こういうことなのだ。自分も、宏之との愛を守るためなら何でもするだろう。心の中で、そう呟いていた。
「指の先で文字を伝える方法もご存知?」
少なくとも手話を覚えれば、美玲自身の意思はダイレクトに伝えることができる。後は、話せない沢田明信の意思をどう受け取るかであった。どこまでいっても、もどかしさは拭い去れないであろう。それでも、絶対に二人の距離を縮められると信じていた。何もしないで、何もしなかった自分を後悔したくない。小紅螺の言葉が、彼女の心の支えとなっていた。



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