姉妹|ぬくもり3-27

 たかが絵ではないか。渚はそう考えていた。しかも、障害者の描くものなど、話題性以外に、わざわざ菊川由莉に依頼した意味が分からない。遠縁の知り合いと言うが、地元にもそれなりの画家がいるだろう。三食付きで毎日温泉に浸かれるなら、材料費程度で構わないと引き受けたことも、如何にも売れない画家を思わせていた。その上、普段の会話が怪し気なのだ。きっと姉は騙されている。何か別に狙いがあるのかもしれない。アシスタントに手を挙げたのも、その辺りを探ろうと考えたからだ。パラリンアートに興味はなかった。
「わしの顔に何かついておるか。」
想わぬ衝撃を受けたのは、凪乃がOKを出した下絵を見た時だった。ナニワイバラの白い花が、渚には本物以上の“質感”と“情感”で、生命の息吹を見せ付けてきたのだ。人の描いた絵であることに違いはない。それが作り物であるのも、当然頭の中では理解していた。
「気が散る。」「わしの顔をじっと見つめるでない。」
「え?」「あ、ご、ごめんなさい。」
まさに心を奪われていた。菊川由莉の描いたナニワイバラの世界に、強いシンパシーを感じて、魅せられるままぐいぐいと引き込まれてしまっていたのである。
「こう見えても美人に弱いのじゃ。」「少し休憩致そう。」
先ほどまでの、鬼気迫る画家の表情とは打って変わって、やさしい笑みを浮かべてくれていた。渚は、異彩を放つ彼女自身の不思議なオーラにも魅せられているのだ。
「あ、はい。」
画伯の編み出したと言う特殊技法にも、少なからず驚嘆と感動を覚えていた。大きな絵を直に描くことが、これほど困難を伴うと、誰が想像できるであろう。一瞬一瞬が真剣勝負だった。失敗の許されない、高い緊張感の中での、息をもつかせぬ挑戦の連続なのである。
「すまぬが、珈琲を淹れてくれぬか。」
「あたしも飲みたいと思ってました。」
描くことに関して、菊川由莉に妥協はなかった。最終的に絵の大きさは関係がない。どれも、彼女が全力を傾けた乾坤一擲の作品であるからだ。どんなに高額を提示されても、絶対に受けない仕事もあった。この仕事を引き受けたのは、美崎凪乃との出会いに運命を感じたことだけではないのだ。古い老舗旅館を訪れる多くの客たちに、自らの絵を通して、白竜浜の魅力を伝えて揚げたいと考えた。楽しい旅の思い出に、文字通り花を添えて上げたかったのだ。
「先生に訊いてみたいことが。」
「わしに?」
「はい。」
「色恋と金の話なら、すまぬが見当違いじゃ。」
何故、体に重い障害をかかえながら、こんなにも繊細で、しかも大胆な絵を描く画家になろうと考えたのか。素朴な疑問に答えが欲しかったのだ。自分は、沖むらの女将になることを、母の密かな期待を知りながら頑なに拒んできた。もっと、自由に生きたいと望んできたのである。他に何かやりたいことがあるわけではなかった。仕来りや因習だらけの町を捨て、しがらみのない大都会で面白おかしく過ごして暮らしてみたい。漠然とそう考えていた。しかし、想い続けた凪乃が帰ってきたことで、状況が一変してしまったのだ。できるなら、姉の支えとなって、いつまでも傍で見守りたかった。自分に何ができるのか。この先の選択肢に思い悩んでいた時だった。
「え?」「お姉ちゃんもですか?」
同じことを訊かれたと言うのだ。どう答えたかも話してくれた。
「そうなんですか。お姉ちゃんが…。」「あたしと同じことを…。」
胸の潰れる思いがした。恐らくは、凪乃も苦しんでいるのだ。否、女将として沖むらを背負った時から、自分を捨てて生きる覚悟はできているはずだった。それでも、心がこの町から逃れたいともがいている。もしかしたら、自分以上に、女将にだけはなりたくなかったのかもしれない。渚は、今さらながらに、そう思い知らされていった。
「お姉ちゃんが…。」

 白竜温泉社の入口を出る凪乃の表情は暗かった。問答無用で、次の時と場所を指定され、社長の海野に会えないまま追い返されてしまったのだ。この春からの急な値上げを通知されていた。そこにはあり得ない単価が書かれていたのだ。受け入れられるはずもない。沖むらの経営が成り立たなかった。予めアポイントを取って来たのにも関わらず、急用で出かけたと年増の事務員にあしらわれ、その時の心構えまで、暗に言い含められていったのである。この町での力関係と、生き残るための厳しい現実を見せ付けられていた。
『その晩は、社長がそこで泊まり込みの予定だから、じっくり話せるわ。』
旅館が暇な日曜の夜に、あの海乃夢庵での面談を指定されたのだ。
『お酒でも飲みながら、まずは信頼されることね。』
如何にも見下した言い方で、事務の女性は意味深な笑みを浮かべていた。
『とにかく社長を怒らせないことだわ。』『女将さんしだいってこと。分かるでしょ?』
母の奈津美は、いずれ白竜温泉社が無理や難題を押し付けてくるかもしれない。その時は、毅然として、はっきり断ればいいからと強く言われていた。さりながら、多少のセクハラは覚悟の上なのだ。奈津美自身も、酒宴や旅行の席で何度も嫌な思いをさせられている。その辺りは、大人の女としての綱渡りを演じていく以外にはないとも言われていた。誘いに乗れば、酒の相手をさせられるだろう。だが、断れば、沖むらの営業が続けられなくなってしまう。二者択一ではなかった。とにかく会って、社長の海野と話をする以外にはないのだ。凪乃は、事務の女性に承諾の意を伝えて、重い足取りで帰っていった。
「一人で来るよう念押ししときました。」
奥の社長室から出てきた海野に、年増の事務員が微笑んだ。
「いよいよか。楽しみだ。」
「万事、抜かりなく準備させておきます。」
「食ったり飲んだりしないだろう。」「例のやつもな。」
「もちろん、当日は私が。」「いつも通り、換気してお膳立てしておきます。」
当然、自分を警戒するはずの、そのつもりのない相手に使う手だった。特殊な香を座敷に焚き込めて、待たせておく間に充分に嗅がせておくのだ。彼が行く頃には、身持ちの堅い女性でも殆ど抵抗できない状態にされている。今まで何度も試してきた一番確実な攻略方法だった。失敗したことは一度もない。事務の女性は、何もかもその手筈を心得ていた。
「堀田は呼ばなくていい。」「あの若女将は、俺独りのものにする。」
この町で、海野に睨まれたら生きてはいけない。従業員たちの生活にも責任のある女将なら、理不尽な目に遭わされても尚更泣き寝入りするしかないのだ。一度そうなれば、後はずるずると関係が続くことになる。先々に彼が飽きても、堀田に払い下げられるだけであった。
「待ち遠しいでしょう。」
「ああ。すごくな。」
長い付き合いの二人は、肩を揺らして笑い合っていった。


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