罪と罰|ぬくもり3-28

 贅を尽した海乃夢庵は、白竜浜と恋人三が崎、そして鬼ヶ島も一望にできる高台の、誰もが認めるこの町で最高のロケーションに建てられていた。源泉かけながし、檜の野天風呂の付いた広い和室と、高級家具の配されたロイヤルスイートルーム、それに七種類の湯が楽しめる大浴場まで、海野正孝の嗜好に合わせて、さまざまな趣向が楽しめるよう工夫が施されている。仕事を終え、和服姿で現れた凪乃は、年増の事務員の判断で和室に通されていた。
「もうじきお見えになりますから。」
「はい。お手間をかけます。」
座敷には、豪華な料理が並んでいた。
「冷えるから、火鉢を傍に寄せますね。」
「恐れ入ります。」
くべられた備長炭の中に、粉末の香が大量に仕込まれていた。これほど間近で嗅がせれば、効果はすぐに顕れる。30分後には、間違いなく身動きできなくなっているだろう。
「ごゆっくり。」
不安な気持ちでいっぱいであった。沖むらの者にも、渚にも内緒で訪れたのだ。事情を知れば、絶対に猛反対されたであろう。そうなってしまえば、もはや旅館の存続が困難となる。話せるはずがなかったのだ。何が何でも直談判して、法外な値上げを思いとどまってもらわなければならない。酒の酌をするくらいは、やむを得ないと考えていた。
「あらあら、どうなさいましたか?」
特別な防塵マスクを着けた事務員が、障子をあけ放って換気扇を回していった。
「女将さん大丈夫?」「何だかとても具合が悪そう。」
身動きできないことを確かめると、奥の襖を開いて、敷かれている布団の上掛を捲ったのだ。凪乃の瞳が凍り付いた。真横の火鉢も、手際よく片付けられていったのである。
「少し横になるといいわ。」「着物も、楽にしましょうね。」「帯がきついのかもしれない。」
そう言いながら、忽ち帯をほどいてしまった。意識はちゃんとあるのだ。何が起こっているのか、ピンクの長襦袢姿にされ布団の上に寝かされた時、今夜の自分の運命から逃れられないと知った。声を発することすらできない。野天風呂の湯加減をみた事務員が襖を閉じて出て行くと、ぴくりとも動けない凪乃の頬を、どうしようもない諦めの涙が伝っていった。

 白竜警察を出る田所万作と千穂を、超望遠のレンズでカメラが密かに連写していた。緊張した面持ちで護送車に乗り込む二人が、遠く離れた位置にいる、その怪しい人影に気付こうはずもない。何かに怯えるように、支え合いながらステップを上がっていった。
「お嬢さんのマンションと、ご主人の病院には、すでにSPが張り付いています。」
非常に重大な情報を、万作から引き出した署長の五十嵐が言った。
「あんたを信じてる。」「必ず娘と孫を守ってくれ。」
十兵衛は、凛とした眼差しでうなずいた。
「奴らには、指一本触れさせませんから、どうかご安心下さい。」
「本当に。」「信じていいんですね?」
蒼ざめた顔の千穂が、それでも念を押したのだ。
「神に誓って。」
頑強な扉が閉じられた。夜間、署の裏口から、人目をはばかるように連れ出されたのだ。見送る十兵衛の表情は、またも摩利支天のものと変わっていた。遂に、許しがたい巨悪と対決する時が、万難を排した彼らに訪れたのである。最後の、詰めの一手はもう目の前だった。

 海野正孝は、玄関に揃えられた薄紅色の草履を見て。美崎凪乃が和室にいるだろうと思った。自分好みの、理想的な展開だったのだ。年増の事務員は、守衛と共に防災センターにいるはずだった。高鳴る旨をさらに躍らせながら、彼は、大浴場へ向かっていった。慌てることはない。大きな期待と罪の意識か。入念に自分の体を洗って、熱い湯船に飛び込んだのだ。
「お疲れさんだったな。和室だろ?」
「はい。お待ちかねですよ。」
白いバスタオルを手にした浴衣姿で、嬉しそうに防災センターの中を覗いたのだ。
「もう二人とも帰って構わんぞ。」「これで、飯でも食べなさい。」
かなりの金額を手渡した。
「いつもありがとうございます。じゃあ、遠慮なく。」
これほど恋焦がれた女は今までに一人もいない。そそくさと二人が出た裏口を施錠し、準備を終えている和室へと向かっていった。真っすぐ座敷を奥まで進んで勢いよく襖を開いた。
「ほう、どこへ行くつもりなんだね。」
全力で、奥の間の畳の上を凪乃が這っていたのだ。
「助け…て。」
若いからだと正孝は思った。だが、その回復力の早さが、返って彼の欲望を燃え上がらせたのだ。なりふり構わず這う内に、長い襦袢の合わせが乱れ、透き通るような白い肩口の肌が、見瀬付けるように露わとなっていた。すり足した膝頭も裾を割っていて、片足が太腿まではみ出しているのだ。しなやかで華奢な体のラインが、襦袢のうえからでもくっきりと分かる。つらそうに眉根を寄せた美しい顔も、この上もなくなまめかしく見えていた。
「い、いや…。」
後ろから抱きついて、自らの正面に、彼女の上体を引き起こしていった。大股開きで、得意げに背中からかかえ込んだのである。凪乃は。力なく彼の胸に凭れるしかなかった。
「値上げのことは、考えてやる。」
醜い痘痕顔を、凪乃の頬に擦り付けて、耳の奥に囁いた。
「女将しだいで、値下げしてやってもいいんだ。」
「い、いや…です。」「や、やめて…下さい。」
胸元から両側の襟を掴んだ。襦袢を一気に腰まで剥いでしまったのだ。ほかの男に穢されたことのない無垢な肌が、たかぶる正孝の目に惜しげもなく晒された。キメ細かな極上のなめらかさが。彼の衝動を際限なく掻き立てたのだ。夢ではない。この世のものと思えない美崎凪乃を本当に我が物にできる。手に入れた究極の美の現実の感触で逢った。
「綺麗な肌だ。」「想像以上だな。」
緩んだ紐もほどかれ、必死に彼から顔を背ける凪乃の細い腰から引き抜いてしまった。
「それとも。」「あんな小汚い旅館は処分して、俺が全部面倒みてやろうか。」
これが、自分に相応しい運命なのかもしれない。あの夏の日が、海野の息遣いと重なって、
瞳を閉じる彼女の心に襲い掛かっていた。今こそ、父を殺した罰を受けるのだ。この瞬間のために、自分は今日まで生かされてきた。否、これから始まる生き地獄こそが、犯した重罪に対する贖罪のための償いの日々となるのだろう。凪乃は、そう自らに言い聞かせていった。
「お前は、古い旅館なんぞに勿体ない。」「これからは…。」
終に、布団の上に引き戻されたのだ。
「毎晩、俺がたっぷり、へへへっ…。」
もはや命懸けで助けてくれた父はいなかった。正孝は、非の打ちどころのない彼女の姿態に目をぎらつかせ、自らも浴衣を脱ぎ捨てると、とうとう上から覆いかぶさってしまったのだ。凪乃の頭には、やさしかった父の笑顔だけが浮かんでいた。これでいいのだ。また愛する誰かを突然に奪われるのなら、自らがこうして犠牲になったほうがいい。もう二度と会えない父の笑顔にそう語り掛けていた。
「初めてなんだろ。」「うんとやさしくしてやるからな。」
あの夏の日の如く、彼がブラのホックを外していった。



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