複製|ぬくもり3-29

 たらふく食った年配の守衛は、朝が早いからと独りで先に帰っていった。年増の事務員だけが、島のカウンターで手酌の酒を飲んでいるのだ。あれから2時間近くが経過している。今頃は薬の効果が完全に切れているだろう。何も言ってこないということは、相応に因果を含めて、社長の海野が上手に扱っているはずだった。相手の女将も馬鹿ではないのだ。不本意とは言え、彼に抱かれたことが実は幸運かもしれないと気付くだろう。したたかな女であるほど、本当は頭の切り替えが速い。飽きられさえしなければ、左団扇で楽に暮らせるのだ。あんな時代遅れの旅館で女将をしているより、贅沢で華美な毎日を送れるほうが、誰もがいいと思うに決まっている。せっかく飛び切りの美人に生まれたのだから、芸能人と同様に、それをせいいっぱいに利用すべきであった。自分は、その仲立ちをしてやったに過ぎない。恨まれるどころか、早晩、あの若女将からも感謝される立場だと考えていた。
「今夜はいないね、あの人。」
彼女はカウンターの端をみながら、問い掛けるように言った。
「え?」「ああ、そうだね。」
彼の席には、常連たちが座らない。永井譲二は、今夜も顔を見せなかった。
「寂しいねえ。」
香織はそれには答えなかった。
「しめの雑炊、そろそろお願いするわ。」
「木ノ子がいいかい?」
若い頃には、何度か相手をさせられた。もしかしたら、後妻になれるかもしれないと、淡い夢を見た時期もあったのだ。海野正孝は、婿養子であった。大変な恐妻家で、憐れなほど粗末に扱われていた。彼の運命を変えたのは、二十数年前の失踪事件であった。忽然と、妻の姿が消えたのである。さまざまな噂や憶測が飛び交ったが、結局のところは、不倫した相手と無理心中したと、当時の警察が無理やりに断定した。交際していたとみられる若い男の水死体が、竜ケ崎に打ち上げられたからだ。以降、正孝はこの町の支配者となっていった。
「御馳走さん。お勘定して。」
夜の風が、頬を凍てつかせた。また明日から、退屈な勤務の繰り返しが始まる。社長は、午後からの出勤になるだろう。あの女将のために、さっそく何かの指示があるかもしれない。まずは、沖むらに適当な人材を送り込む。人と物、金の流れを掴むのだ。それから、美崎凪乃を、女将の多忙な仕事から切り離すだろう。彼女との愛の巣を用意して、自分好みの女に仕込みながら、贅沢三昧と高価な贈り物で金銭感覚を麻痺させ、心身ともに雁字搦めにしてしまう。それが、新しいおもちゃを得た時の、いつものパターンであった。夢のような暮らしをさせれば、どんな女も猫のようにおとなしくなる。そんな飼い猫が、この町には数え切れないくらいいた。だがいずれにしても、あの女将も、特別扱いは暫くの間だと。自分のアパートにたどり着くまで、そんな見下す思いを得意げに巡らせていた。
「だ。誰なの?」
独り身の事務員は、階段の下に目を凝らした。見知らぬ男が闇の中に立っているのだ。
「この女です。」
隣で確認したのは、先に帰ったはずの守衛の男であった。
「やれ。」
危険を感じた時にはすでに遅かった。背後にいた男たちに襲われて、意識を失い、瞬く間に黒いワゴン車の中に引き摺り込まれてしまったのだ。電光石火の早業。プロの仕事であった。

 緋色のフルフェイスが風を切る。渚のバイクが、闇の中を疾走していた。一体、何があったというのだ。姉からの知らせを受けた次の瞬間には、猛然とメットを掴んで家の玄関を飛び出していた。向かっているのは、真夜中の茨岬だった。常識では考えられない。それでも、駆け付けないわけにはいかなかった。沖むらの離れには、凪乃の姿がなかったのだ。夕食の弁当もそのまま残されていた。半信半疑のまま、フルスロットルで飛ばしていた。
「お姉ちゃんは!」「お姉ちゃんはどこなの!」
少し離れた位置でメットを外すなり、渚は彼らにそう叫んでいた。すでに照明は消えている。岬の展望台へ向かうための駐車場は、バイクのライトで照らした正面以外は真っ暗だった。白い高級車を挟んで、黒塗りのワゴン車2台が縦一列に並んで停められていた。その前に数人の男たちが立っているのだ。如何にも危険な目付きで、渚の顔や肢体を眺めていた。
「お姉ちゃん!」
白い車の後部座席から、身も凍るほど鋭い眼差しをした男に寄り添われ、蒼ざめた凪乃が、全く乱れのない着物姿で現れた。渚は微塵も逡巡することなく駈け寄っていた。
「こめん。」
その体は小刻みに震えていた。
「大丈夫?」
小さくうなずく姉を抱き締めながら、渚はリーダー格の男を睨み付けていた。何をされたのだ。こいつらは何者なのだ。否、自分と姉をこれからどうするつもりなのだ。凪乃だけでも、絶対に助ける覚悟で、どんな方法ならここから無事に逃がせるか必死に考えていた。
「心配いらない。」「このまま連れて帰れ。」
黒岩武雄は、妹の心を見透かすように言った。
「信じていいの。この人に助けられたの。」
「え?」
「お前のお姉ちゃんは無事だった。」「朝になれば自分を取り戻すだろう。」
渚は、彼の瞳から目を離せなくなっていた。心臓が、ドクンドクンと大きく強い鼓動を打っている。赤の他人ではない。そう直観したのだ。黒岩も、初めて見る妹の瞳に目を釘付けにされていた。彼の心臓も同様に、はっきりと自覚のできる鼓動を打っていたのである。
「ずっとお前が一緒にいたことにしておけ。」
何が起きたかは知らないほうがいい。わざわざここまで姉を迎えに来させたのも、自分たちが車で送るところを、町中で誰かに見られないようにするためだ。この場で見聞きしたことは、全てこの場で忘れてしまえ。リーダー格の男はそう諭していった。この人だ。この人で間違いない。渚は、遂に確信した。確信して決断したのだ。美崎凪乃を守り切れるとしたら、この危険な男をおいて他にはないのかもしれない。悪意は、悪意の中で生きてきた者にしか見抜けないだろう。この人なら、この世の鬼たちも返り討ちにできる。悪魔でさえ、迂闊に手出しができない男なのだ。それどころか。平然と、神をも敵に回して戦うはずだった。
「お姉ちゃんのこと。」「あなたが、愛してくれますか。」
まだ、渚のバイクはエンジンがかかったままだった。その音で、彼と凪乃以外には、妹の呟く声が周囲に届かない。闇組織の男たちは、辺りを警戒することにも気を取られていた。
「渚…?」
「あたしの分まで、お姉ちゃんのこと、命懸けで愛してくれますか。」
彼は、突飛もない妹の発言に、ゆっくりと力強くうなずいた。あろうことか、二人の魂が共鳴し合っているのだ。渚の愛欲の心が、そのまま黒岩の中に複製されていった。言葉にできないほどの愛おしさに加え、美崎凪乃への抑えがたい恋しさが沸き起こったのだ。
「オトから、あなたの話を詳しく聴きました。」
「俺もだ。」
「他にも会わせたい人がいます。」
凪乃は、やはり彼こそが運命の相手であると、自分たちこそが、あの白竜浜の伝説の二人なのかもしれないと心ひそかに理解した。彼女の中にも、わずかに触れただけでその理性を吹き飛ばすほどの恋しさと、彼のためなら命を捨てても惜しくないくらいの愛おしさが込み上げているのだ。今、伝説の二人の愛に、壮絶な結末が訪れようとしていた。

 同じ頃、柳生康介の父が経営する総合病院の救命に、“半殺し”の状態にされた正孝が運び込まれていた。騒ぎになることを怖れて、救急車は呼ばずに、堀田卓郎に助けを求めたのだ。無数の刺し傷は、全て急所が外されていた。それでも、二度と役に立たないよう、見事に男性機能だけが去勢されていたのだ。彼は、痴話喧嘩だからと、言われた通り、堀田に説明させていた。年増の事務員の行方を、容疑者として捜していた警官が、白竜温泉社からの通報で、ようやく発見したのは翌朝であった。本人の机のパソコンには、犯行動機と正孝への謝罪の言葉が残され、社長室のドアノブで首を吊っていたのである。その言葉は遺書でもあった。パソコンの横には、事務員の指紋と血糊がべっとりと着いた包丁が置かれていた。




「ぬくもり」便利な各タイトルリンク集はコチラ!

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック