視線|ぬくもり3-30

 小紅螺はさんざん悩んだ末に、友則との食事に出かけることに同意した。しかし、記念すべき初デートであるのに、やはり彼女の体力的な負担を事前に考慮しておかなければならない。自宅で家族がサポートしてくれる状態とは違って、彼がまだ病気について何も知らない以上は、高い緊張感などの精神的な負担まで考えておかなければならなかった。自然、予め制約を設けて、無難に過ごせる無理のないデートとなったのだ。送迎は、彼女の母にお願いした。食事する場所も、小紅螺がすでに行ったことのあるバリアフリーの店を予約してもらったのである。これなら万全とは言えないまでも、格段に安心感は増していた。
「うん、聞いたことある。」
内心では、吐きそうなほど気が重い瞬間であった。
「筋ジストロフィーと言います。」
どう受け取ったのだろう。沈黙の長さが、彼の動揺の度合いを表していた。
「ああ、でも良かった!」
「え?」
それは予測していない言葉であった。
「あ、ごめん、良かったなんて不謹慎だよね。」
爽やかな言い方で微笑んだのだ。この場限りの、作り笑いとは思えなかった。何故だろう。難病をかかえていると知れば、途端に態度を変えてもおかしくはないのだ。少なくとも硬い表情を浮かべ、同情や慰めのセリフを探して思わず口にしてしまうのが普通の反応だった。
「もしかしたら、君がその…。」「もう長く生きられないとか、そう言われたら、どうしようかなって。」「本気でそんなこと考えて、昨日の夜も、ぜんぜん眠れなくて。」「だから…。」
彼はもう一度、ほっとした自分に照れるように笑った。
「良かった。」
目頭が熱くなるのを感じた。小紅螺も、昨夜はぜんぜん眠れなかったのだ。今日が、最初で最後のデートになるかもしれない。きっとそうなるだろう。淡い期待が膨らめば、そのまま大きな落胆となって返ってくる。それが自分の宿命。逃れられない運命なのだと考えていた。
「ありがとう。」「なんだか、嬉しいです。」
この店のパスタは、お奨めの逸品であった。でも、今までこんなに美味しいと思ったことはない。彼の選んだ甘口の白ワインの味も、トマトソースとの相性が良くて格別だった。不思議なことに、今夜はチェック柄のテーブルクロスが可愛く見えている。心地の良いBGMは南欧のリズムであろうか。小野寺友則がそこにいるだけで、全てが違うものに感じられていた。弾む会話に、目がほころんだ。いつしか、大きな声で笑っていたのだ。
「今夜はお世話になりました。」
駐車場の車の前で、母がそう挨拶していった。
「こちらこそ、ご迷惑をかけてすみません。」
だが、丁寧に交わし合う言葉と、若い二人の視線は全く別物であった。本当は、まだ帰りたくない。小紅螺の目はそう訴えていた。勿論、僕も本当は帰したくない。友則の目がそう答えていた。切なく想う互いの心が伝わってくる。ドアが閉じた後も、彼女が視線を外すことはなかった。母の車が見えなくなるまで、彼の視線もずっとそのあとを追い続けていたのである。ただ、友則の胸の奥にだけ、南条正美という後ろめたい迷いの陰があった。

 大広間の端から端まで、姉妹は舞台を下りて観賞していた。遂に、菊川由莉のナニワイバラが完成したのだ。しだいに従業員たちも集まってきていた。初めて観た者たちから、素直に絶賛の声が上がっている。この町に住む人々には、とても親近感のある花でもあった。
「これほどとは…。」「見事だ。」
「ええ。迫力と美しさに圧倒されます。」
板長の森下と、フロントの石垣だった。
「早く大女将にも、こいつを観せてやりたいな。」
「はい。とりあえず写真だけでも病院にお持ちしましょう。」
渚は誇らしげであった。生涯忘れ得ないであろう、とても貴重な体験でもあったのだ。そして何より、由莉の発した言葉の一つ一つが、彼女の心の財産となっていた。
『一枚の絵は、千の言葉にも勝る。』『わしにとって、絵は手段であって目的ではない。』
なぜ画家になったのか。その答えを語り始めた時である。
『先生にとって、絵は手段なんですか?』
『芸術を志す者は、恐らく皆が同じであろう。』
どうしても、自分で伝えたい何かの想いがそこにある。どうしても、自らの手で描いてみたい出合いがそこにあるというのだ。その込み上げる強烈な創作意欲が、自分を突き動かしている。画家と言う職業を選んだのではなくて、画家になるために生まれてきたのだと言った。
『もう一つの命…。三つの命以外に?』
『最後の命は、秘密の密という、密命じゃ。』
『え、密命ですか?』
渚の淹れた珈琲は、香りが際立っていると褒めてくれた。
『誰にでも、胸に秘めた想いがあろう。』『決して人には明かせぬ想いじゃ。』
すぐに凪乃の顔が頭に浮んだ。
『その密かな想いに殉じても、人知れず報われぬであろう命のことじゃ。』
『悲しい命ですね。』
『じゃが、悲しいばかりとも限らんのじゃ。』
『どうしてですか?』
もしかしたら、心の中を覗かれているのかもしれない。奇奇怪怪な画伯の言い放った次のひと言が、美崎渚の人生を大きく変えようとしていたからだ。
『もしも、愛する者の重荷を背負えるのであれば。』『密かな命が、この世に生まれた意味と大きな価値を持つであろう。』『それが天命でなくとも、無上の歓びとなるやもしれぬ。』
この時、彼女は心を震わされていた。
『無上の歓び…。』『心に秘めた、密命…。』
大広間は、集まった従業員たちの驚きと笑顔で満たされていた。だが、その片隅で、冷たい視線を渚にあびせる二人の仲居がいたのである。あの約束を果たそうとしない彼女に、強い怒りを覚えているのだ。これでは、何のためにこの旅館に就職したのか分からない。安い給料でこき使われることにも、少なからず不満を募らせていた。からかわれただけなのか。だとしたら、思い知らせてやりたい。今夜は、いつもの4人で出かける予定だった。水谷茂と小川直之の男二人も巻き込んで、思い知らせる方法を話し合おうと決めていた。



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