密告者|ぬくもり3-31

 夕食の弁当は、手付かずでコタツの上に置かれたままだった。初めて休みを取る凪乃は、慌てて洋服に着替えると、古い三面鏡の前に正座して入念な化粧を始めていた。渚から借りたイヤリングが。鏡の中の自分を見詰める彼女の心を華やがせたのである。ベッドの枕元で時を刻む目覚まし時計も、その鏡の一部に映っていた。もうすぐ迎えの時間なのだ。左右の反転した文字盤の針が、意地悪に逆回りして、時を贈らせているかのように感じられていた。今夜の彼女は、少女の如くに胸をときめかせている。あの夏の日から失ってしまった女の幸せを、ようやく自らの手に取り戻そうとしていた。再会を果たした父との約束通りに…。
『凪乃。』『私の大切な凪乃。』
『お父さんなの?!』
父が現れた瞬間に、時が止まっていた。覆いかぶさる海野正孝の姿が消えて、彼女の目の前に、あのやさしい父が立っていたのだ。夢、幻ではなかった。
『お父さん、本当にごめんなさい。』
彼は、幼い頃のようにそっと抱き締めてくれた。
『もう自分を責めてはいけない。』『父さんのために自分を責めないでくれ。』
『でも、私がお父さんを!』
『違う!』『絶対に違う。お前の責任なんかじゃない。』
『お父さん!』
凪乃も強く抱き締めていた。
『お前が幸せになってくれることが、父さんへの何よりの供養なんだ。』
二人の頬を大粒の涙が伝っていった。
『凪乃の笑顔が見てみたい。』『大切な人をせいいっぱいに愛して、心から愛されるお前の姿を見てみたい。』『父さんのために、世界一幸せな凪乃の笑顔を見せてくれないか。』
『お父さん…。』
『今、ここで約束してくれ。』『父さんのために、必ず幸せになってみせると。』
『ありがとう。お父さんに約束する。』『必ず幸せになってみせる。』
父の姿が消えて、剥がされた襦袢を羽織った彼女が、逞しい黒岩の腕の中に抱かれていた。海野は既に連れ出され、どうなったかは分からない。ただ、自らが穢されていないことだけは間違いがなかった。彼は、二度と悪夢は起きないとだけ囁いたのだ。
「はい、分かりました。すぐに行きます。」
携帯が着信した時には立ち上がっていた。裏口から少し離れた、目立たない場所に、白い高級車が停められていた。小走りに駆け寄って、後部座席に飛び込んだのだ。恋しさが込み上げてくる。愛する彼がそこにいた。凪乃が乗り込むと同時に、車は静かに滑り出していた。アクセルを踏み込む直前に、運転手の男がルームミラーの角度を変えた。
「あなたを、心から愛しています。」
高速を飛ばした先の、都市型ホテルのインペリアルスイートであった。
「もう二度と凪乃を離さない。」
「嬉しい。」
運命の二人は、一糸まとわぬ姿で抱き締め合っていた。時を忘れて、何度も何度も愛し合ったのだ。狂おしいほどに、どうにかなってしまいそうなくらいに、とろけるほど甘く、体が溶け合うほど深く、燃え上がる互いの肌を激しく貪り尽したのだ。我に返った時には、暗幕のカーテンから、柔らかな朝の光が洩れていた。見詰め合う瞳は、あたかも永遠を刻むかのように固く結ばれていた。恋しくてたまらない。愛おしくてたまらなかった。
「ずっとこうしていたい。」
「ああ、ずっとこうしていよう。」
終りのない二人は、又も愛欲の渦に落ちていくのであった。

 白竜警察の地下から連なる秘密の通路は、100mほど海側に離れた公園の真下に繋がっていた。敷地全体のアンダーグランドに、ハイテクを駆使した情報収集室と、最新装備を配した機動部隊の本部が置かれているのだ。鬼ヶ島と対峙してきた歴代の署長が、海野正孝に懐柔されながらも、密かに準備を整えてきた前線基地であった。決戦を前に常駐することとなったのは、いずれも国内で選りすぐりの、特殊な訓練を受けたハッカーやスナイパーなど、いわゆる非合法な行為まで許可された国家ライセンスを持つスーパーポリスたちである。
「黒岩の動きが怪しいです。」
情報収集の責任者、警部補の織田雷太(オダ ライタ)が報告した。
「どんな風に?」
上官である警部の早乙女真琴(サオトメ マコト)だ。彼女こそが、五十嵐十兵衛の右腕にして、機動部隊の精鋭を率いる特命の女性司令官だった。勿論、自身が殺しのライセンスを持っている。鬼ヶ島の鬼退治の切り込み隊長として、十兵衛と共に白竜警察に送り込まれてきた。
「昨夜から、若い女とホテルにしけ込んでます。」
「へえ、あの男が珍しいわね。」「詳しく調べさせて。」
「了解です。」
彼女たち二人は、機動本部内の指令室で定例の打ち合わせをしていた。
「珍しいと言うより、初めてかもしれないわ。」「気になる。」
同じ時刻に、警察署内にも新たな動きがあった。人目を忍んで訪れた密告者に、署長の五十嵐が彼自身で直々に事情聴取を始めたのである。彼がそうしたのは、タレコミの内容が、あの白竜温泉社の、不可解な事務員の自殺に関係していると、最初に担当した取調官に報告されたからなのだ。否、それよりも、共犯と名指しされた女性に強い関心があった。
「ほう。あの人が黒幕?」
「はい、その…。」「全て、お姉さんが仕組んだと思います。」
海野正孝に無理やり関係を迫られて、以前から顔見知りだった黒岩に助けを求めた。あの鬼ヶ島の連中が、沖むらの若女将のために暗躍したと言うのだ。
「事務の女性は、社長への見せしめだと?」
「さあ、そこまでは…。」
情報源を捜査対象としないことを条件に、木村碧はそれが妹の渚からの話であると明かした。あの晩、彼女は美崎の家にいたのだ。凪乃の知らせを受けて、猛然と飛び出す渚に置き去りにされ、碧はベッドで独り、凄まじい嫉妬の念に駆られていったのである。
「本当なら、やっぱり魔性の女ですなあ。」「10年前にも、父親を死なせてますから。」
記録を取っていた年配の刑事が、そう得意げに言って薄ら笑いした。
「すごく恐ろしい…、危険な女性だと思います。」
目を伏せて呟く密告者を、十兵衛はじっと正視していた。



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