ドリブル|ぬくもり3-32

 後の後悔、先に立たずとは言い得て妙だ。正美は半ば自虐的に、今の自分をそう断じていた。いけないことだと思いつつも、彼のスマホを、こっそり覗き見してしまったのだ。小紅螺と言う女性とのメールその他が全く見当たらなかった。あまりに不自然ではないか。旅行の幹事を、二人で任されたと聞いている。今は頻繁にやり取りしているはずだった。自分にこうして見られることも、ある程度予測していたに違いない。互いが、まだ互いを信用していないのだ。そのこと自体も、彼女にとっては痛ましく思えた。男と女の仲で、求めてくるが、愛されてはいないのと、愛されてはいるが、求めてもらえないのと、どちらの関係も、物悲しくて遠過ぎる。離婚前の夫との仲が、正に後者の関係だった。そして、今の友則との仲が、恐らく前者の関係なのだと認めざるを得なかった。
「やっぱり、週末はどこも満室ですねえ。」
彼の車で、いつものホテル街を巡っていた。
「ちょっと古いホテルでもいいですか?」
二人の愛を確かめ合う行為ではなくて、重ねる行為そのものが彼の目的となっている。今さら拒めない自分も情けなく思えた。勿論、拒みたいわけではないのだ。友則に愛されることは、無上の悦びでもあるからだ。そう思いながら、体だけの女にされるのを怖れていた。。
「あ、ここ空いてる。」「入りますね。」
「うん。」
どこまでも、彼女が欲しいのは偽りのない愛だった。夫の浮気を知った時、最初に込み上げてきたのは怒りの感情ではなかったのだ。見知らぬ他人に奪われてしまった喪失感と、女として負けたような敗北感だった。後から襲い掛かってきたのが、裏切られたことの悔しさと、家族としての深い憤りであった。その涙が流れ切った後に、もう夫の言葉を何も信じられなくなった自分が待っていたのである。抑え難い怒りが込み上げたのはその時だった。
「あ…、あれ。」
友則が向けた視線の先に、まさかの二人が立っていた。正美は彼と一緒にシートで身を屈め、出てきた個室のドアから、その二人が車に乗り込むまで息を潜めて見守っていた。同じ広域エリアの中で、他の事業所を任されている最年長の女性のチーフであった。小太りしていて、とても魅力的とは言いがたい。相手の男は、無論あの地区長の郷田晴久なのだ。
「やっぱり最低な奴ですね。」
あえて自分のマンションを避けたのは、その場所が正美の事業所に近いからだろう。友則は、そう言って鼻で上司を笑った。見境のない破廉恥さを笑ったと言うよりも、これで本命であるはずの彼女が嫌悪感を強めたと確信して、自らの墓穴を正美の目の前で掘ってしまった郷田の、運の悪さと滑稽さを思わず勝ち誇ったように笑ったのだ。
「今夜は。」「帰りましょう。」
同じホテルで、彼らの後など考えられなかった。
「え、どうしてですか?」「せっかく空いてたのに。」
「どうしてって。」「分からないの?」
初めて二人が口喧嘩した。友則の本心は、郷田に対する優越感を、今夜こそ余計に味わいたかったのだ。正美を意のままにできる自分を、叶うことなら見せ付けてやりたい。そんな思いに駆られていた。彼女も又、小紅螺との仲が気になって、彼の言葉が素直に聴けなくなっていたのだ。最後は、互いに無言のまま、正美の家の傍で別れてしまったのである。それが、旅行前に二人で逢える最後の晩だと、冷静さを取り戻した後に彼らは思い出していった。

 車椅子バスケのルールは、健常者の行うバスケと殆ど大筋では変わらない。コートの広さも、スリーポイントラインやフリースローラインも全く同じであった。しかも、驚くことに、ゴールとなるリングの高さまで同じなのだ。当然、座ったままでジャンプなどできない選手たちにとって、その距離は健常者よりもはるかに遠くなる。いかに正確で、力強いシュートが求められるかが想像できるだろう。大きく違っているのは、ダブルドリブルの違反がないことだ。ドリブルをして車椅子をこぎ、またドリブルすることが可能だった。
「はい。障害の重い選手を、試合で排除させないためです。」
出場するチーム5人の“合計点”が、14点以内になるよう定められている。点数とは、個々の障害の程度によってクラス分けされた“持ち点”のことであった。1.0から4.5まで0.5ずつ8段階あって、一番重いのが1.0か1.5で、腹筋、背筋が機能せず、座位での体のバランスをとることができない選手の場合とされている。4.0の選手の場合は、両手を上げて、片方向に車椅子を大きく傾けることができ、4.5の選手の場合は、両方向に車椅子を大きく傾けることができると規定されていた。これらの選手の持ち点によって、5人でチームを組むためには、重度障害者の参加が必須となってくるのだ。さらに言えば、持ち点の少ない、障害の重い選手の活躍こそが、勝敗の分かれ目の大事なポイントとなるのであった。
「なるほど。」「障害の軽い人だけでは試合ができないんですね。」
広岡俊一が、説明してくれている男性コーチに確認した。
「そうなんです。」「そこが車椅子バスケのおもしろいところで。」
「ふん!」「とんでもないドラマが起きそうだな。」
「ええ。とてもエキサイティングで、挑戦的なプレイの連続です。」
ここまで来ても、体育館の片隅で、佐々木敦夫はふてくされて横を向いていた。松山俊哉が、約束通り1か月で、見事に公道を走れるようになったのだ。ボランティアで付き合ってくれた俊一のサポートがなければ、これほど短期間に習得するのは難しかったかもしれない。彼らは、問答無用で敦夫を連れてきた。それでも興味を示さなければ、それがこの若者に課せられた運命なのであろう。まさに今が、佐々木敦夫の人生の勝負の分かれ目だった。
「では、実際に試合をご覧頂きましょう。」
コーチの視線が、敦夫にチラリと向けられた。彼も、事情を聞かされているのだ
「これが、うちの車椅子バスケです。」
あの、ドリブルするボールの音が聴こえてきた。床から、その刻まれるリズムが、敦夫の車椅子にも伝わったのだ。どんなに見るまいと頑張っても、到底無視できるわけがない。プレイヤーたちの声が、ボールを奪い合う気迫と熱気が、忽ち敦夫の心をわし掴みにしていた。
「結局、理屈ではないんです。」「みんな、バスケが大好きだから、自ら障害を克服してきました。」「車椅子かどうかなんて、本当にバスケがやりたいなら最後は関係ないんです。」
もう、抗えなかった。敦夫の瞳が、彼らのプレイを必死に追っていた。その身のこなしも、その駆け引きも、何一つ彼の知るバスケに、見劣りするものなどなかったのだ。体中の血が騒ぎ出した。胸が躍り、心が沸き立つのを止められなくなっていたのだ。あの頃の自分がそこにいた。夢中でボールを追いかける、あの頃のがむしゃらな自分がそこにいたのだ。
「僕にも…。」
蚊の鳴くような、弱弱しい声だった。
「僕にも、ボールを…。」
俊哉も俊一も、そしてコーチも気が付いていた。
「お願いです。」「僕にもボールを触らせて下さい。」
俊哉は、胸が熱くなるのを感じた。俊一も、目の奥が熱くなっていた。
「お願いします!」「ボールを!」僕に!ボールを触らせて下さい!」「お願いです!」
信じ難いほどの大声で叫んでいた。皆の動きが止まって、敦夫に視線が注がれたのだ。もう一度、皆に懇願する彼の前に、ボールを持った一人の選手が車椅子を滑り込ませてきた。
「触るだけじゃなくて。」「いつか、俺らと一緒にプレイしてみないか。」
一生、二度と触れられない。否、絶対に二度と触れまいと固く誓っているはずだった。自分の体の一部にさえ思えてくる。ぽんと膝の上に置かれたボールの感触に、バスケへの想いが噴き出したのだ。敦夫の涙が、止めどもなくその手の甲に降り注いでいった。
「ふん!」
潤んだ瞳を観られまいと、俊哉が横を向いていった。


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