変化|ぬくもり3-33

 ただでさえ厳めしい顔の森下が、今にも鉄拳制裁するのではないかと思わせる形相で、客間の一つに呼び出された彼女たちの顔を睨みつけている。事実、水谷茂と小川直之の二人は、板場の裏で強烈な一撃を見舞われて吹き飛んだのだ。山本茜は、ハンカチを握りしめて泣いていた。気の強い澤田麗奈は、むくれた表情で彼から目を逸らせている。仲居頭の初美は、落ち着かない様子で、若女将が現れるのを待っていた。
「ああ、女将さん!」
「お待たせしてごめんなさい。」
板場の二人が裏切ったのだ。本気で渚を襲う計画を持ち掛けられて、口先だけの彼らが板長の森下に告げ口した。不純な動機で就職した彼女たちと違って、水谷と小川は、沖むらで一人前の板前になることを夢見ていた。師弟関係の縛りの強い和食の世界では、万一森下から破門されたら、その後はまともな板場で修行ができない。一門の息の掛かった料亭や料理旅館では、全国どこへ行っても二度と働けなくなってしまうのだ。少なくとも、森下の顔が利くこの白竜温泉にはいられなくなるだろう。元々、修行中の彼らが乗れる話ではなかったのだ。棚ぼた式の幸運を描いて、あり得ないと思いつつ勢いで遠吠えしていたに過ぎなかった。
「あいつらは破門します。」
森下は、どうしても許せなかった。彼らの告げ口で、未然に防げたから大目にみてやろうという話ではない。あの夏の日以来、沖むらの皆が、砂を噛むような思いで必死に耐え忍んできたのだ。こんな小娘たちとつるんで、姉妹を辱めるなど、冗談にも口にして良い話ではなかった。許せるはずがないのだ。森下にとって、特に渚は、実の娘も同然に感じられていた。
「この子たちも、分かっていると思います。」
初美は、がっくりと肩を落としていた。久々の新卒の二人に、大きな期待を寄せていたからである。自然、日々の指導にも熱が入って、せいいっぱいに彼女たちを鍛えてきたつもりだったのだ。麗奈と茜が同性愛者であることも、渚に焦がれて沖むらの仲居になったことも、初美の理解を大きく越えて、女性としてもかなりのショックを受けていた。
「渚にも。」「この子たちに思わせぶりなことを言った責任の一端があります。」
意外な言葉に、麗奈が顔を向けていった。あでやかな着物姿の美しい凪乃がそこにいた。
「若い時の過ちは、一度きりなら許されるべきでしょう。」
未遂とは言え、それでは甘過ぎる。陰謀を目論んだのだ。森下がそう声を上げようとした。
「私も。」「ようやく自分を許すことができました。」
何と言う凛々しさであろうか。森下と初美には、神々しくさえ見えていた。この世のものとは思えない美しさに加え、強靭な精神と信念に裏打ちされた“貫禄”が窺える。一体、いつの間にこれほどの器の女性になっていたのか。森下は、自分の言葉を呑み込んでいた。
「でも。」
その刹那に、表情が一変した。若女将の変化は彼らからは見えない。森下と初美に背を向け、凪乃が視線を若い娘たちに移したからだ。茜だけが、尚もうなだれて泣いていた。
「それなりの償いは必要だと思います。」
麗奈は、背筋に寒いものを感じた。彼女の目に映った若女将の視線は、氷のように冷たく見えたのである。絶対に、お前たち二人を許さない。傍に置いて、必ず生き地獄を見せてやる。覚悟しておくがいい。この世に生まれたことを、後悔することになるだろう。そんな声が聞こえてくるようだった。もうこの人から逃れらえない。心の底から震えが走っていた。
「この子たちは、私に預けて下さい。」
重みのある、否とは言わせない響きだった。
「板場の二人も、私に免じて、破門から助けて上げて欲しいです。」
白竜温泉社の事務員の死を聞いても、凪乃は眉一つ動かさなかったのだ。むしろ、当然の報いであると受け取っていた。それが黒岩の指図であるのは、考えるまでもなかった。何かが起ころうとしている。彼女自身が、それを予感しているのであった。二人の愛を守るためなら、どんなに惨い所業でも決して厭わない。美崎凪乃の心は、間近に迫った運命の時を前に、天にすら仇を成すであろう黒岩武雄の邪悪に染まろうとしていた。

 鬼ヶ島では、須藤真一の指揮のもと、近付く取引に向けた万全の準備が着々と進められていた。彼らの組織にとっては最大級の、数年に一度しかない巨額の資金調達なのだ。失敗は指先ほども許されるはずがない。全員が、異様な緊張感に苛立って、殺気さえも帯びていた。
「このヤマを踏めば、いよいよ五代目の襲名披露ですね。」
黒岩武雄が総長となれば、巨大な闇組織の筆頭組長となるのが、須藤会の須藤真一であった。実質的に、彼が裏社会の支配全てを任されることになるのだ。どんな望みも思いのままだった。だが、その一方で、数万に及ぶ構成員たちを養っていかなければならない。海外からの無法なマフィアの流入も後を絶たず。正に凌ぎを削る攻防が、闇の中で繰り広げられていた。
「で、あの方は、どうしますか。」
美崎凪乃のことを言っているのだ。無論、この町に独りで置いておくわけにはいかない。取引が済んだと同時に、自分はここを離れることになる。敵対する組織や、黒岩に恨みを持つ者たちが、一斉に無防備な彼女に狙いを定めてくるだろう。すでに情報が広がっているかもしれない。本拠地に連れ帰って傍に置く以外、彼女を完璧に守る方法がなかった。
「俺はもう、姐さんだと思ってますから。」「全力で守らせてもらいます。」
今の流れで黒岩に何かあれば、五代目も凪乃も、労せずして真一の手に転がり込むであろう。鵜呑みにした途端、寝首を掻かれることもある。舎弟といえども、迂闊に信用はできなかった。人の道に外れた極道の、修羅となって生きる弱肉強食の世界だった。隙を見せれば、忽ち皆が牙を剥く。死にたくなければ、心の内を、決して他人に明かさないことであった。
「今度の取引が済むまで、余計なことは考えるな。」
この鬼ヶ島が、世界の闇物資の重要な流通拠点となっている。高純度の大麻に覚醒剤、違法薬物、盗難品や密輸品、武器弾薬から化学兵器までと、裏社会で売買される物なら何でも扱っているのだ。あの扉の奥が、厳重に在庫の管理されている場所だった。もうすぐ、海外の大口バイヤーが現れる。後進国の国家予算に匹敵するほどの巨額が取引されるのであった。
「厳戒態勢で臨め。」
「へい、ご安心下さい。」
しかも、鬼ヶ島の某所には、失踪した海野正孝の妻の遺体が、まるで人質のように眠っていた。二十数年前、その仕事を請け負ったのが、まだゴロツキの須藤真一だったのだ。正孝が逆らえないのも当然だった。この島に彼らがいる限りは安泰なのだ。
「兄貴と姐さんの門出を、この須藤が飾らせてもらいます。」
それが、野獣の勘と言うべきか。不敵な笑みを浮かべる舎弟を、黒岩は横目でじろりと見ていた。かなりの野心家なのである。彼の持ち物を、何でも欲しがる危険な男でもあった。



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