失望|ぬくもり3-35

 人間の心とは、これほど短い間に、こんなにもさまざまに変化するものなのか。美玲は、彼と逢った瞬間に、忽ち気負いこんで、自分らしさが吹き飛んでしまうのを感じていた。初めて披露した挨拶の手話も、緊張で指先が震えていたために、思うようには動かせなかったのだ。その上、明信の手話通訳の男性が、なぜか彼自身ではないかと錯覚してしまい、もしかしたら本当は話すことができるのかと、あり得ない妄想までいだいて舞い上がってしまっていた。通訳する時間を与えずに、矢継ぎ早に言葉を繰り出したのである。瑞希が気付いて、彼女を制してくれた。どんな言葉を口にしたのかすらも、数秒後には思い出せなかったのだ。ようやく、歓びが込み上げてきたのは、案内された喫茶店で腰掛けた後だった。
「オホホッ、。美味しい珈琲ですこと。」
心底逢いたいと思った男性だった。間違いなく目の前に座っているはずなのだ。だが、殆ど彼の存在を実感することができない。本音を言えば、それがあの沢田明信なのかも、どこか疑わしく思えたのである。歓びは疑心暗鬼へと変わり、しだいに不安が広がった。
「え?」「あ、はい。私は、その、ヘルパーの仕事をずっと…。」
その不安は、失望へと足早に変化した。
「ええ、美玲さんと一緒に、一生懸命覚えました。」「へたくそですみません。」
話題の中心が瑞希になっていたのだ。サポーターの男性陣にも、彼女の隠れファンは少なくない。容姿が魅力的なのは恐らく間違いないのだろう。手話通訳の声が弾んでいた。
「そうですね。旅館で滞在します。」「明日の予定も、まだ聞いてません。」
この後、瑞希がどうするのか。時間があるなら、名所を案内すると言い出したのだ。
「連絡先ですか?」「私の…ですか?」
さっそく口説こうと考えたのは、手話通訳の中年男性であった。明信は、この時トイレに立っていたらしい。だが、それを理解したのは、失望が嫉妬や怒りに変わる前に、美玲が自ら帰ろうと言い出した後だったのだ。情けなく思えた。予め多様なシーンを想定して、それなりに心の準備をしてきたつもりだったのに、彼が席を離れていたことさえも冷静さを失くしていて分からなかったのだ。別れの挨拶もそこそこに、何も進展がないまま店を出たのである。予測していた内で、本当に最悪の結果となっていた。瑞希もまた、憔悴し切った彼女にかけるべき言葉もないまま、皆の待つ白竜浜へと向かうしかなかったのだ。こんな幕切れで良いはずがない。瑞希の頭には、かるがものメンバーと、やはり橘葵の顔が浮かんでいた。

 姉妹がコタツを囲むのは、いつの日以来であろうか。仲良く夕食の弁当を並べて、二人は離れで談笑していた。あの晩を境に、凪乃の警戒心が失せたのだ。今は、昔と変わらぬ可愛い妹に見えていた。渚がそれを口にしたのは、食事を終えた後のことであった。
「え?」「どうしてなの?」
この春で大学を辞めると、唐突に妹が言い出したのだ。
「何かあったの?」
あえて理由を聞くまでもない。自分のためではないかと直感した。凪乃は、昼間に訪れた病院での会話も同時に思い返したのである。黒岩から固く口止めされていたが、母にだけは打ち明けずにはいられなかった。奈津美は、それで良いと言ってくれた。もうすぐ私も退院できるだろう。森下や初美には、後から話して納得させる。愛する人の傍を離れてはいけない。これからはもう我儘に生きていいと、心からの笑顔で言ってくれたのであった。
「お姉ちゃんと黒岩さんを見てて、やっと分かったの。。」
「何のこと?」
「どうして、あたしが生まれてきたのか。
波紋だけは免れたものの、小川と水谷の二人は解雇されていた。麗奈と茜は、女子寮での謹慎を命じられ、その間の減給処分を言い渡されていたのだ。誰の目にも、片手落ちの扱いに映っていた。まさかに今、鬼ヶ島にいるなどとは想像すらも及ばない。この世に生まれてきたことを後悔するほどの。正真正銘の生き地獄を味わっている頃であった。
「ほんとにそれでいいの?」
「こう見えても頑固なのよ。」「うふふっ、先生にも励まされたわ。」
凪乃自身が後顧の憂いを絶っていた。もう二度と、あの仲居たちに狙われることはないはずだ。森下に破門させなかったのも、恨みをいだくであろう若い男たちを、あのまま野放しにすべきでないと判断したからなのだ。奇しくもそれが、渚への置き土産となりそうだった。
「お姉ちゃん、何?」
想いを秘めた妹の手を握って、傍に引き寄せたのだ。姉の瞳は、涙で潤んでいた。
「ありがとう。」
やさしく抱き締められた胸の中で、渚はとても幸せそうにそう呟いていった。

 早乙女真琴は、最新鋭の加工が施されたステルスのジェットボートで、深夜の鬼ヶ島へ近づいていた。船体はサーチライトも吸収する特殊な黒い塗料で覆われ、如何なるレーダーやソナーを用いても絶対に探知されることはない。スクリューや船尾にも力学的な工夫がされているため、白い波を立てて引き摺ることもなかった。つまりは、完全に見えない偵察用の高速ジェットボートなのだ。田所万作は、この島の極秘の改造に関わっていた。大手のゼネコンともなれば、裏社会との関係は切っても切れない。二十年前の、大変に危険な仕事であった。彼が五十嵐十兵衛に提供した情報で、彼女が決戦前の下見に現れたのである。
「なるほど、あそこなのね。」
三日月形の外側の波間で、暗視機能が付いた高性能な双眼鏡を手にしていた。高く切り立った岸壁にある、組織の者たちにも内緒の脱出口を確認しているのだ。こうして間近で目視しても、目星を付けるための予備知識がなければ、まるでカモフラージュされている箇所を見抜けなかったであろう。一計を案じた万作が、いざと言う時のために備えて、現場監督に耳打ちして作らせておいたのだ。事実、その翌年には、その現場監督が謎の死を遂げていた。
「真冬の荒波だったら、とても近付けなかったわ。」
真琴は、千載一遇のチャンスが到来したと確信した。
「黒岩武雄、今度こそお前を逃さない。」「覚悟なさい。」
沖むらの若女将が、彼の情婦となったことは確かであった。黒岩の女嫌いは、取り巻く者たちの七不思議の一つだったのだ。見た目にダンディーで、セクシーな上に謎めいている。早乙女真琴が、黒岩逮捕に執念を燃やしてきたのも、本当は彼に惹かれているからなのかもしれなかった。美崎凪乃の存在を、どこかで苦々しく感じているのだ。突然現れた邪魔者のようにさえ思えていた。何としてでも、この手で黒岩を監獄に送り込んでみせる。目障りなその情婦も、彼から永遠に引き離してやろうと心に決めていた。
「戻りましょう。」「これで、奴にチェックメイトできそうだわ。」
機動部隊の猛者がうなずいた。秘密の船着き場が、本部基地の最深部に設けられているのだ。取引の情報を逐次傍受している彼らと組織との激突は、すでに秒読みの段階に入っていた。



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