花吹雪|ぬくもり3-41

 夜が明けようとしている。鬼ヶ島は、原型をとどめないまでに破壊し尽され、公海上に浮かんでいた闇商人の客船も深海の改定に沈んで突き刺さっていた。どちらも悪党どもに生存者はない。だが、あれほどの大爆発を起こしていながら、機動部隊の側には殉職者が出なかったのだ。白竜浜は、束の間の静けさを取り戻していた。時を経ずして、遺体の回収と現場検証が島の内外で始まるだろう。マスコミも、大挙して押し寄せてくるはずだった。
「とっても静かね。」
茨岬の、海を見下ろすベンチに腰掛けていた。
「もうすぐ夜が明けるわ。」
凪乃は、愛しい彼の胸に顔を寄せている。昨夜から、今が春だとは思えないくらい温かかった。波静かな、初夏すら思わせる運命の一夜であったのだ。
「ねえ、あと少しだから、お願い、待っていて。」
うなだれたままの黒岩から、もはや彼女への返事はなかった。
「あなたから一瞬も離れたくないの。」「永遠に愛してるわ。」
白み始めていた。無情な朝が二人に訪れたのだ。凪乃は、冷たくなっていく彼の体を、せいいっぱいに自分のぬくもりで暖めていた。これからだ。これから、やっと二人だけの時が始まるのだ。自分たちは分身などではない。命懸けで愛し合った。黒岩武雄と美崎凪乃の愛は、確かに眩しく鮮やかに煌めいたのだ。彼女は、薄れ出す意識の中でそう繰り返していた。
「私も。」
季節外れに満開となったナニワイバラが、岬全体を真っ白に覆い尽くしていた。
「私もだんだん、眠くなってきた。」
終に、朝日が昇った。だが、その光を二人が浴びることはなかったのだ。可憐なナニワイバラが、渦巻く花吹雪となってベンチを包み、次の瞬間、二人の姿はそこから消えていた。

 沖むらで充分な仮眠をとったメンバーたちは、遅めの朝食を済ませ、昼前には帰り支度を始めていた。まさかの緊急非難で疲れてはいるが、けが人もなく、全員が無事だった。美玲のもとには明信が駆け付け、小紅螺と友則はフロントでチェックアウトを行っている。正村夫妻は、土産物コーナーであれこれと思案し、車椅子の貴公子も、皆のスナップ撮影に余念がなかった。宏之と瑞希、翔太と彩音、京奈と果歩が、主なその被写体であった。
「もう出発の時間ですね。」
あの絵の前に立つ由莉に、別れを惜しむ渚が声をかけてきたのだ。
「おおっ。何と美しい。」「天女のようではないか。」
初めて、自ら着物を纏っていた。この世のものとは思えない美しさであった。
「何もかも、先生のお陰です。」
渚は、画伯の隣に並んで、白い竜の絵に目を移していった。
「わしではなかろう。それは…。」「それは、あの…。」
誰かの名を口にするつもりだった。思い出せない。もう一人、大切な人物がいるはずなのだ。靄の掛かった記憶が、急速に、思い出そうとする由莉の頭の中から失せていった
「ありがとう。」
忽ち真っ赤になっていた。渚が、彼女の頬にキスをしたのだ。
「だ!」「だはははっ!」
「またいつか、お会いできますか?」
「もっ、もちろんじゃ。こっ、ここの温泉が気に入った。」「今度は家族連れじゃ。」
老舗旅館の入口正面で、メンバー全員が記念写真に収まった。送迎用のバスが発車する直前、橘葵は白昼夢を観たのだ。思わず夢の中でそう声を上げていた。
『お似合いだわ。』『素敵な二人よねえ。』
美しい和服姿の女性に寄り添う若い医者が見えていた。彼女は、朝食で飲んだお酒のせいだと思った。だが。それを見たのは葵独りだけではなかったのだ。後日、彼女の綴ったブログを読んだメンバーたち全員が、全盲者も含めて、全く同じ光景を目にしていたと分かったのである。そして同様に、全員から、美崎凪乃の記憶も失せていたのであった。

 夕暮れ時、署長の五十嵐十兵衛と、一旦は生きたまま黒岩を逮捕していた早乙女真琴が、茨岬に停めた警察車両の中にいた。明日から始まる本格的な捜索や検証を前に、白竜警察と浜を埋め尽くしたマスコミから、ここまで二人きりで上手く逃れてきたのだ。大型クルーザーと客船の沈没位置は掴んでいた。今後は、須藤会と組織の全容解明、大規模な壊滅作戦が彼らの役割となってくるだろう。その手掛かりとなる重要な情報も既に入手していた。突入作戦の直前に、ある匿名の密告があったのだ。
「なぜでしょう。何かが足らない気がします。」
彼女が、水平線を見ながら、助手席の十兵衛にそう呟いた。
「私もそう思う。」「心に、大きな喪失感がある気がしてならない。」
匿名の情報をまとめたのは、己の最期を悟った黒岩武雄であった。運命の前夜、凪乃にそれを託したのだ。拉致される直前に、彼女がその隠し場所を通報していた。
「不思議なことばかりです。」「通報者の携帯が、存在してない番号だなんて。」
「ああ。組織を滅ぼすほどの情報だ。いったい誰が…。」
水平線の向こうに、分身の二人を掻き消した太陽が再び沈もうとしている。薄暮が闇に変わりかけた時の正に神秘的な出来事だった。雲散霧消したはずの白い花びらが、天空の彼方から舞い降りてきたのだ。彼らを乗せた車は、瞬く間に、渦巻く真っ白な花の吹雪に埋まっていった。夜が訪れた時、見詰め合う十兵衛と真琴は、全ての答えを知っていた。この先の二人がどうなるのかも、彼らはもう、分かり過ぎるほどに分かっていたのだ。そう、最後のナニワイバラは、早乙女真琴の脳裏に浮かんでいた。五つ目の心“希望”だったのである。白竜浜の伝説が、最後に、もう一つの奇跡を起こしたのであった。

 小雨の中、女将の香織は、看板の照明を落として暖簾を仕舞った。大勢のマスコミ関係者で満席となり、常連が締め出された上に、食材も殆ど底をついてしまったのだ。カウンターの上まで、大量の洗い物がたまっている。店を早めに締めるしかなかった。
「ごめんよ。今夜はもう…。」
入口の鍵を締め忘れていた。
「あ…。」
「傘を借りてた。」
八神譲二であった。
「そっ、そうだったかねえ。」
慌てて目をそらせていった。貸した傘が戻ってきただけなのだ。
「え?」
上着を脱いで、カウンターの中に入ってきた。
「一人じゃ大変だ。」
腕まくりして、手際良く洗い物を始めたのである。香織は、少し戸惑いながらも、彼の洗い上げた食器を拭いて、水切りしたジョッキ類を専用の冷蔵庫に収めていった。
「あの。」「お腹空いてるかい?」
店の片付けはほぼ終えていた。
「もし、良かったら。うちへ。」「大したものはできないけどさ。」
譲二はすぐには答えなかった。
「あ、ごめんよ。つい…。忘れてね。」「手伝ってくれて助かったわ。ありがとう。」
カウンターを出て上着を羽織る背中に言った。
「この町で生きていくことにした。」「惚れてる女と。」
「そ、そうなのかい。」「そんな大事な人がいたんだね。そうなんだ。」
とことん惚れて、とことん泣いて、酒の力で独りきりの夜を明かしてきた。今夜も、繰り返すだけなのだ。香織は、割烹着を脱ぎながら、最後は笑顔で送り出そうとした。
「この傘持ってきな。もう返さなくていいから。」
「ああ。もう返さない。」
目の前にゆっくりと歩み寄ってきたのだ。
「これからは毎晩。」「お前を、俺が迎えにくるから。」
こんな、場末の酒場には、悲しい演歌の文句がとても良く似合う。そぼ降る雨の中、肩を寄せ合う二人が、言葉少なに歩き出していた。今夜だけは、そんな悲しい文句が似合わなかった。戸締りした店の中には、香織の流した嬉し涙だけが残されていたからだ。昨日のことは忘れてしまった。明日のことは遠すぎる。今だけ傍にいてくれればいい。二人でさした傘の下、それでも香織は、また騙されてもいいと、馬鹿になりたい自分にそう言い聞かせていた。



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