涙の自動改札|ぬくもり3-42

 人の恋路に踏み込んで、興味本位でもの申すほど、葵も画伯も野暮ではなかった。だが、小紅螺のことともなれば、やはり見て見ぬふりもできない。白竜行きの電車内で、あんなに仲睦まじかった二人が、誰の目にも余所余所しく見えていた。帰りの電車は、彼女たち二人や美玲と一緒に、四人掛けの座席に腰掛けてきたのだ。友則とは離れた位置で、彼の隣には翔太が座っていた。何があったのか。否、何もなかったことが原因なのか。遠巻きに気を揉むより、ストレートに声を掛けてみるべきだと二人は考えた。
「そういうことかあ。」
「はい、そうなんです。」
小紅螺は、葵にきっぱりと答えた。
「なるほどのう。心ここにあらずであったか。」
好意をいだく相手でなければ、ただ傍にいてくれるだけで、安心できて有り難かっただろう。しかし、友則の落ち着かない表情は、自分を案じてくれているものとは思えなかったのだ。何か別なことを怖れているような、気になる問題が他にもあるような、気もそぞろで、二人の会話が途切れる度に、あらぬ方向を見詰めて真剣に考え込んでいた。
「おおっ、何と大胆な!」
「で、トモくんは何て?」
真夜中に避難指示が解除され、沖むらに戻る途中に、小紅螺が思い切って問い掛けたのだ。もしかしたら、あの南条正美のことではないのか。恋をする女の直感だった。
「そう正直に答えてくれました。」
図星だったのだ。命の危険を感じた時、彼の頭の中は、その女性のことでいっぱいであったらしい。つまらない喧嘩をして、気まずいままで旅行にきてしまったのだと言う。恐らく彼女と交際していて、つまりは、自分と二股をかけるつもりだったということになる。少なくとも、あの事件がなければ、友則と特別な関係になっていた。聞き流せるはずもない。嫉妬や怒りを覚える前に、一気に想いが冷めていくのを感じていた。
「正直過ぎるわね。」「うふふっ、バカが付くくらいだわ。」
「たぶん二股と思うてはおらんのじゃ。」「優柔不断なのであろう。」
「あんたは大丈夫なの?」
「もう吹っ切れています。」
また一つ、小紅螺は階段を上ったらしい。葵と由莉はそう思った。初めてこの教室にきた時の、生きる屍のようだった彼女とはまるで違っていた。女性としても、人間としても、驚くほど短い期間に大きく成長している。きっと、まだまだこれからなのだろう。見違えるような大人の女性に変身した小紅螺には、飛び切り素敵な出逢いが待っているに違いない。慌てる必要はなかった。彼女でなければならない、運命の人が絶対に現れる。葵も、由莉も、小紅螺がいつか、このかるがもを背負って立つ、そんな日がくるような予感がしていた。

 南条正美は、本社で定例の事業所長会議に出席していた。普段は各地区ごとで行われているのだが、四半期ごとに一度は、全国の事業所チーフが一堂に会することになっているのだ。カリスマ的創業者の訓示に始まり、役員たちからは今後の経営方針の発表、最後に各部門ごとの通達や補足で、大抵は午前中の会議が終了する。それぞれのチーフに時間が与えられ、前月末までの営業報告と今月以降の見込みを、順次交替で報告するのは午後からだった。
「ほんといいわねえ、南条さんとこは。」
「え、何で?」
「だって、常に成績上位じゃない。」
話の合うチーフたちと、本社近くの店でランチをしていた。
「でも、今月は大変。目標達成は無理かも。」
「あら、うちなんて最初から諦めてるわ。」
報告の待つ午後からは皆、総じて気が重くなる。多少の差こそあれ、どの事業所も業績は概ね好調なのだ。だからこそ余計に、細かな取りこぼしが指摘されやり玉に挙げられるのであった。正美の場合は経営陣に高く評価され、売り上げも順調に伸びているので、緊張感の漂う報告の場面でも気後れする心配はまずないのだ。他の女性チーフたちと話を合わせながら、彼女の脳裏には、常に小野寺友則のことが浮かんでいた。
「おたくの地区長、降格したって?」「社内不倫とか聞いたわ。」
「そう…みたいですね。」
「郷田さんでしょ?」「辞めるらしいわ。会議も欠席してたもの。」
「あ、ここのスープ美味しい。」
彼が無事であることは、メールで確認できていた。だが、それだけなのだ。昨夜は帰宅しているはずなのに、彼女には何も連絡がなかった。どうなってしまったのだろう。あの晩が、二人の最後であったのか。小紅螺と言う娘と何かが起きたのかもしれない。もしかして昨夜も一緒であったのか。気が気ではなかった。
「疲れたわねえ。じゃあ、南条さん帰るわ。」
「あ、はい。お疲れ様でした。私も失礼します。」
長い一日が終わって、皆が、帰宅の途に就いていた。正美も、最寄駅から地下鉄を乗り継いで、一番近い主要駅に独りでたどり着いたのだ。冷たい車窓から見上げる闇は、どこまでも果てしなく続いていた。ガラスに映る自分の顔も、とてもさえない女の表情に見えていた。
「ごめんね。やっぱり会社に寄ってくわ。」「うん、ご飯は食べた。」
わざわざ事業所のある駅で降り、改札に向かう途中で実家に電話を入れたのだ。こんな時間まで残業しているはずがない。それでも、確かめずにはいられなかった。もしも、もしも今夜も逢えなければ、そんな悲壮な覚悟が、ふと心のどこかに芽生えていたのだ。
「あ…。小野寺君、どうして?」
もしも、もしも今夜、彼女がこの改札から出てきてくれたなら。友則は、あり得ないと思いつつ、本当に今夜、全く連絡もなしで正美に逢えたら、それが自分の答えなのだと考えていた。馬鹿げているのかもしれない。でも、彼自身では決められなかったのだ。
「どうしても、正美さんに。」
自動改札の前には、他に人の姿はなかった。
「どうしても今、正美に伝えたいことがあるんだ。」
呼び捨てにされた刹那に、彼女はもう、自分の答えを決めていた。正美は、それを口付けで返したのだ。受け取った指輪の箱を、今にもこぼれ落ちそうな涙で握り締めながら…。少し遅れてきた春が、ようやく今夜、いつまでも離れられない二人に訪れたのであった。


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